茅ヶ崎に風が吹いてる。

湖のほとりでため息をついて、僕は家に帰ろうと決めた。【バイク旅行記04夏#5】

2014年夏に出かけたバイク一人旅の記録。

三日目。予定を立てないまま迎えた本栖湖の朝。何をしたらいいかわからず気は焦るのだが。

前回まで ▶ 天空へつづく西伊豆スカイラインを越え、本栖湖の青さに息を呑む。【バイク旅行記04夏#4】

朝の本栖湖は美しかった。霧に煙った富士山のシルエットが幻想的で、思わず見とれてしまう。

昨夜は疲れて早々に眠ってしまったので、頭はだいぶすっきりしている。今日何をするのかまったく決めていないので、これからプランを立てなければならない。

今思い返せば、まだこの頃の僕はわけのわからない漠然とした不安と焦燥感に追われていたので、予定のない一日をむかえるということがひどく怖かったのをおぼえている。

今日何をしたらいいかがわからない、という不安はとてつもなく大きい。けれど湖の深い藍色と森の木洩れ日を眺めていると、すこしずつ気持ちが落ちついていくのがわかった。

焦るのはよそう。まずはメシだ。メイプルシロップとマーガリンがたっぷり入ったパンケーキはひどく甘く、寝ぼけた頭を覚醒してくれる。最近朝はコーヒーでなく紅茶が多い。

フリーズドライの煮麺はシェラカップにちょうどいい量だ。お湯を注ぐだけで食べられるこの煮麺のスープにはとろみがついていて、ちょっとびっくりするくらい美味しかった。

腹を満たしたら、しばらく湖を散歩してみる。

さてどうしたものか。

次の目的地は決まっていないのだ。まだ時間が早いので、今から「陣馬形山キャンプ場」へ向かうのも不可能ではないが、そんな気分ではない。ならばその中間地点まで走るか。長野県のどこかのキャンプ場まで距離を稼いで、陣馬形山には明日向かうか。

陽射しがさすと湖水の透明度が際だつ。湖だからもちろん波はない。海を見慣れているので、その静けさは怖いくらいだ。

地元の子どもたちのカヌー教室がはじまった。遠くの方からはしゃぐ声が届いてくる。

誰かが楽しんでいるところを見るのは気持ちがいい。誰かがふさぎこんでいるのは見たくない。いずれにせよ今は誰とも関わりたくない。

湖の中ほどで楽しそうにカヌーを操る子どもたちだって、こうして眺めているぶんには笑って許容できるが、近よってくれば鬱陶しいのだ。

独りでは寂しい。けれどみんなといると苦しい。

たぶんあの頃の僕はそんな感じだったんだろう。

それでも子どもたちの声とどこまでも澄んだ風景は、僕にいくらかの元気をくれた。せっかく自由な旅に出たのに、今日これからどうしようか、なんてことでくよくよ悩んでいる自分が滑稽に感じられた。だから決めた。

考えても答えが出ないんだから、今日は走るのをよそう。

今夜もこの美しいキャンプ場に泊まろう。お昼はどこかで美味しいものを食べて、近くを好きなだけ走ったら、明るいうちからビールでも飲もう。心を、解きはなとう。

オートバイにバッグだけをくくりつけてキャンプ場を出た。荷物がないオートバイは軽快で、まさに身も心も軽くなった気分だ。

まずは湖を一周してみる。本栖湖はほとんど人の手が入っていない。本当に自然のままだ。観光地化された山中湖で白鳥ボートに家族で乗るのもわるくないが、独りのときには本栖湖がちょうどいい。厳しすぎない、やさしい自然だ。

湖畔から森に入ると、ひんやりとした空気に心身がゆるんでいく。えも言われぬ感動が静かに湧きあがってきて、僕は何度目かの息を呑む。

朝霧高原を縦断する国道139号線は、スピードが乗るし景色が開けているのでとても気持ちがいい。風を切って走る、というオートバイの根源的な楽しみを思い出させてくれる。

広大な高原を進んでいくと、唐突に何頭もの乳牛が見えてくる。ぎょっとするが、のどかだ。どこまでも、のどかだ。

友人のご両親が営むとんかつ屋で昼飯を食う。息子さんの友人であることを店主に告げるかどうかしばらく迷う。それを伝えればそれなりのサービスをしてくれるだろうし、ちょっとした世間話もはじまるだろう。だがそれが鬱陶しいのだ。

ふだんなら笑ってこなすことができる人との交流のあれこれが、ひどく億劫で、気が進まない。それでもあまり来る機会のない場所だったので、店を切り盛りしているお母さんに声をかけて、いろいろとサービスしてもらった。カリッと揚がったロースカツは見た目にも肉汁がこぼれてじつに美味しそうなのだが、話しているうちにやっぱり味がしなくなってしまった。

ふたたび国道を走って本栖湖へ戻る。田貫湖や朝霧高原のキャンプ場を見にいってもよかったのだが、今日はとにかくゆっくりしようと決めて、昼すぎには帰ってきた。

ビールもたんまり買ってきた。

ほろ酔い気分で放心状態の筆者。

すこし酔っぱらって眠くなったのでテントに逃げこむ。ムーンライトのグリーンがやさしい午後の陽光に照らされて、心地よい空間だ。聞こえるのは森の音だけ。

ふと思い出して、Kindleで小説を読む。小説を読むのなんて何年ぶりだろう。ここしばらくはビジネス書だとか実用書だとかばかりだったので、抜きんでた作家の美しい文章にうっとりする。ああ、僕は小説を読んでもいいんだ、自由なんだ、そんな感慨がおりてくる。

ビールのあてにさんま蒲焼きの缶詰を温める。こいつがこんなにうまいものだとは知らなかった。

せっかく時間があるのだから米を炊いてみよう。

これだけあれば親子丼ができる。

卵が多かったのでスクランブルエッグになってしまったが、塩味の親子丼は今まで食べたどんな親子丼よりもうまかった。

何もしないと決めて、好きなところを走って好きなものを食べて好きなだけ飲んでいたら、こころと体がぐにゃぐにゃのこんにゃくみたいになっているのが自分でもわかった。

それはとても心地のいい瞬間だった。ここ数年間味わっていない感覚でもあった。ひたすら自分にムチ打って、首が動かなくなるまで全身に力を入れて過ごしていた日々。おかげで僕はぶっ倒れちまった。

でも今こうして独りで旅に出ている。今はあまり力が残っていないけど、僕は無力ではない。

気がついたら、昨日まで必死に忘れようとしていた現実のことを考えていた。会社のこと、家族のこと、将来のこと、自分のこと。だんだんとやるべきことが見えてきて、それに向かって動きだしたいという気持ちすら湧いてきた。

まだ家を出て三日しかたっていないけど、家族に会いたいと思った。家族をしっかり抱きしめて「パパは大丈夫だよ」と言ってから、現実のあれこれに対処したいと思った。だから、もう帰ろう。明日すぐに、ということではないけど、家の方向へ走ろう。酔っぱらった頭でそれだけ決めて、森の深い眠りについた。

つづく ▶ 樹海から雲の中の富士山スカイラインを抜け、夏空の山中湖へ。【バイク旅行記2014夏#6】

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