ずっと若い頃から、昼間の蕎麦屋が好きだった。
僕の印象だと、昼間の蕎麦屋っていうのはだいたいどこも外の明るさとの対比のせいかうす暗くて、ひんやりしていて、とても静かなものだ。
二十代前半の頃の僕は毎晩小説を読みながら酒に溺れる生活をしていたから、仕事のない昼間に近所の蕎麦屋へ行って、文庫本を片手にざる蕎麦とか鴨南蛮とかをずずっと啜っては、また暗い独り暮らしの部屋へ戻っていった。
中島らもだったか村上春樹だったか、いやたぶん他にもいろんな作家が言っていたんだろうけど、「若いもんが昼間から蕎麦屋で日本酒なんか呑むもんじゃない」っていう、なんか不文律みたいなものがあった。
人生の何も知らないひよっこの小僧が蕎麦をつまみに日本酒をたしなむなんて百年早い、ということなんだろう。僕はまだ一度もやってみたことはないけれど、たしかにあの頃からかすかな憧れを抱いていた。
蕎麦は「たぐる」と言うのが粋だ、とか、酒は蕎麦がきをつまみに呑むもんだ、とか、天ぷらだけを頼むときは「天ぬき」と言えば通っぽい(天ざるからざる蕎麦を省いて)とか、こと蕎麦にはやたら五月蠅い人たちがいる。蕎麦についてべらべら喋っている人は、もうその時点で粋でもなんでもないような気がするけど。
学芸大学駅の近くにあった天ぷらの美味しい小さな蕎麦屋さんで、真夏の昼間に酒を呑んでいるおじさんを見かけたことがある。
おじさんはランニングにつっかけを履いて、スポーツ新聞を片手に冷酒をちびりちびりとやっていた。つまみは蕎麦がきでも湯葉刺しでもなくて、漬け物かなんかだったと思う。干しあがった干瓢みたいに痩せこけたおじさんはちっとも「通」っぽくも「粋」でもなかったけど、なんだかとても自然に見えた。
だから僕は、ふと気がついたら、といった具合に自然にできるようになるまでは、蕎麦屋で日本酒を呑むのはやめようと決めた。今もまだ、その日は来ていない。
だけど最近、お酒を呑むのが楽しくなってきた。
若い頃は、酔っぱらって眠りこけるために呑んでいたようなところがあって、お酒を楽しんではいなかった。
今になって思えば、何者でもない自分に焦って、物語に逃げこんで、目に見えない漠然とした将来の不安に押しつぶされそうになっていたんだろう。
仕事の後にダイニングテーブルで家人と缶ビールで乾杯をしたり、土曜日の夕暮れに庭でBBQの炭をおこしながらビールを流しこんだり、バーボンをペリエで割ったのを舐めながらソファで映画を観たり、旧い友人たちと何件もはしごして大騒ぎしたり、端から見ると今までと同じような飲み方で、みんながやっているようなお酒とのつきあい方なんだけれど、今はそのどれもがとても楽しい。
たぶんきっと、あの頃と違って、僕は独りじゃないという確信が、心の底に這っているからだと思う。それなりに長く生きてきた、ということが、僕の心が倒れないように支えてくれているんだなと思う。
そう考えると、独りで真っ昼間から蕎麦屋で日本酒をたしなむっていうのは、意外と寂しいものなのかもしれない。
そういう寂しさをまとった人間の年輪のようなものが自然と出てくるようになるまでは、蕎麦屋で日本酒なんて呑んじゃいけないような気がする。考えすぎのような気もする。
だけどとりあえず今は、輝く太陽の下で、笑ってビールでも呑んでいようと思う。