村上春樹さんのエッセイ『サラダ好きのライオン』を読んでいる。
最近はビジネス本や実用書ばかり読んでいるので、こういう肩の凝らない本を読むと全身がほっとする。
偶然だけど、何ヶ月か前に藤沢のジュンク堂でiPhoneアプリ開発の教科書をたくさん買ったときについでに買ったのは、このエッセイの前作にあたる『おおきなかぶ、むずかしいアボカド』だった。つまりここ数ヶ月の間に僕が自分の楽しみというか喜びのために読んだ本は村上春樹さんのエッセイだけということになる(ちなみにこれらのエッセイ集は、村上春樹さんが雑誌『anan』に連載したものをまとめたものです)。
村上春樹さんの小説については今さら説明するまでもないけれど、僕はどちらかというとエッセイの方が好きだったりします。それは春樹さんにかぎらず、好きになった小説家のエッセイはほとんど読むし、そっちの生身の言葉の方に惹かれることが少なくない。
十代の終わりくらいから春樹さんのエッセイを何度も繰り返し読んできたけれど、最近のananの連載エッセイを読んで「おや?」と感じる部分が少なからずあった。
何がどうだ、と説明できないのだけれど、なんだか春樹さんらしくないのだ。
文章はあいかわらず平易でわかりやすくすっきりしているし、内容もあいかわらず猫や野菜や音楽の話が多くてほっこりしてしまうんだけれど、どこかが以前と違う。
最近のエッセイと昔のエッセイをじっくり読み比べて分析すれば「相違点」は見えてくるかもしれないけれど、それをするのはなんだか違う気がする。ビジネス本を読んでいるわけじゃないんですからね。
エッセイのどこがどう違うかは置いておいて、僕が率直に感じたのは「ああ、村上春樹も歳をとったんだなあ」ということだ。
それは決して「歳をとって説教くさくなった」とか「頭が固くなった」とか言ってるんじゃなくて、かと言って安易に「いい意味で」とは言わないけれど、あの村上春樹さんも僕と同じように歳をとっていくんだな、と、あたりまえのことを深く頷いてしまった。
今ネットで調べてみたら、春樹さんは1949年生まれで、今年で63歳になるそうです。
そういう僕だって、『風の歌を聴け』をはじめて読んだ19歳のあの頃からもう二十年近く経って、子どもが三人もできて、徹夜ができなくなって、食べるものの嗜好も変わったし、いつのまにか自分の周りの人たちもおじさんやおばさんばかりになっているし、言葉からも身体からもあの頃の勢いは消え去ったし、ご飯を食べた後はつまようじでシーシーやるようになったし、まったく当たり前のことなんだけれど。
年をとるということを、いろんなものを失っていく過程ととらえるか、あるいはいろんなものを積み重ねていく過程ととらえるかで、人生のクオリティーはずいぶん違ってくるんじゃないか、という気がする。
引用:『サラダ好きのライオン』
いろんなものを積み重ねながら年をとっていくことは、決して悪いことじゃない。たとえいろんなものを失いながらであったとしても。
だから今日も、自分が信じた夢や目標や愛する人たちのための時間を、自分の手でしっかりと積み重ねていきたい。
ふとそんなことを思う夏の夜でした。