先日、友人とジャズバーへ行く機会があった。
生演奏が聴けるところへ行くのなんて、いつ以来だろう。
若いころニューヨークで一度、それから何度か、都内のどこかで友人のサックスの師匠のライブを観たのが最後だったはずだ。
古き良き盛り場の風情を残した街の、古き良きジャズバー。店に入った瞬間からわくわくした。
開放的な店内、ステージとテーブルの配置や昔ながらのバーカウンターが映画みたいに素敵で、きちんとベストを着たバーテンダーがいて、いちばん前の席で、年配の男性が静かにビールを飲んでいた。
客はそれほど多くなく、店は閑散としていたが、今にもデ・ニーロかレイ・リオッタあたりが演じるマフィアが女性を連れて入ってきて、いちばん上等な席に案内されそうな。
その日のバンドは、場慣れした風の中年のピアノと、若いドラムとベース。それにピンチヒッターの女性ボーカル。
若い二人は明らかにピアニストに遠慮していて、アドリブで技と魂を競い合う、というよりは、緊張した面持ちで、どうにか粗相のないように無難にやり遂げようとしているように見えた。
それでも、それぞれが、互いをうかがいながら、徐々に音を合わせていくさまは、最高に気持ちよくて、思わず喉から声が漏れた。
レベルの高い演奏ではなかったけれど、ああ、ジャズってこういうことだよなあっていう、即興の臨場感がビシビシと伝わってきた。
世界最高峰の、たとえばサッカーのレアル・マドリー対チェルシーの試合を観ても、レベルが超人的すぎて、スポーツとしてのリアリティには欠けてしまう。
でも高校サッカー選手権くらいだと、自分と同じ人間が同じボールを蹴って、これだけスゴいことをやってるんだという、同じ人間のリアルを感じられる。
それと同じで、街角のジャズバーで聴いた生演奏は、僕の部屋のスピーカーから流れるコルトレーンよりも、ずっとずっと格好良くて、ずっとずっとジャズだって気がした。
もちろん、それから家に帰って爆音で聴いたコルトレーンは、以前よりずっととてつもなくてひっくり返ってしまったのだけれど。
『ルーク・ケイジ』っていうアメコミのドラマに出てくる悪い奴が、音楽に目がなくて、自分のクラブで演奏するミュージシャンにうっとりしたり、自分でも女をはべらせてピアノを弾いたりするんだけど、その自己満足な恍惚が、見ていてなんだか微笑ましい。頷いちゃう。いいよなあ、音楽って。人生なんて、自己満足だよなあ。
それにしても、マハーシャラ・アリって、いい役者だと思いませんか? あの顔とあの声と、あの雰囲気と間で、あの年齢で表舞台に出てきたのは、運命としか思えないなあ。
ジャズを聴くのも、場所って大事ですね。