そしてスカーレットのまわりからは誰もいなくなった。『風と共に去りぬ』

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『風と共に去りぬ』や『風立ちぬ』の「ぬ」は、過去完了の助動詞で、それぞれ意味としては『風と共に去った』『風が立った』というふうになる。風と共に去って、もうそこには誰もいないのである。

舞台は1860年代のアメリカ南部。今から150年も前、リンカーンの時代の物語である。天性の美貌と勝ち気な性格で、良くも悪くも界隈で目立ってしまう貴族階級の少女、スカーレット・オハラが主人公。

南部の奴隷制度と貴族階級が全盛期だった時代を背景に、南北戦争を経てアメリカが大きく変わっていく時代の風に吹かれながら、波瀾万丈の人生を力強く歩むスカーレットの姿が情熱的に描かれる。

物語の概要を良心的に書けばこんなところだろうか。

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スカーレットは天真爛漫で奔放で気が強くて情熱的だといえば聞こえはいいが、今の時代に見てみると彼女はもう違和感の塊だ。ヒステリーで利己的で平気で人を傷つける最低の女だという見方だってできる。

と言うよりも、よくよく考えてみると、このスカーレットというキャラクタは、どこからどう見ても非道い悪役の女にしか見えなくなってくる。

好いた男にふられれば悪態をついてヒステリーを起こし、あてつけに別の男と結婚し、金のためには妹の彼氏も奪い、人を殺し、盗みを働き、役に立たない人間を迫害し、平気で人を傷つける。それが当時の貴族階級の女であり、戦時下ではたくましさも必要だと言われればそれまでだが、そんな女性を主人公に据えたところで心には響いてこない。すくなくとも僕の心には。

スカーレットの無二の親友で、性格も生き方も対照的なメラニーという女性が出てくるのだが、か弱いながらも何があっても人を信じ抜く強さを持った彼女のほうがよっぽど主人公に向いていると思うのは僕が日本人だからだろうか。

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メラニー役の女優は、聖母のようなやさしい微笑みが似合うかわいらしい方なのだが、スカーレット役のヴィヴィアン・リーは、どちらかというとシンデレラをいじめる姉のような顔にすら見えてくる。

南北戦争を描いた本作であるが、映画が公開されたのはくしくも第二次世界大戦が開戦された1939年。暗い不況にあえいでいたアメリカは、スカーレットのような苦境に負けない強い女性を求めたのかもしれない。

クライマックスで、スカーレットは亭主レットに愛想を尽かされ捨てられてしまう。ようやく真実の愛に気がついて泣いてすがるのだが、疲れ果てたレットは無情にも出て行ってしまう。

南北戦争という時代の風に吹かれて、スカーレットのまわりからはたくさんの人が去っていった。両親も二人の亭主も愛した男も親友も愛娘もみんな死んで、自分を追いつづけてくれた最愛の男にも去られてしまう。

それでも彼女は、涙も乾かぬうちに上を向く。「After all, tomorrow is another day.(明日があるわ)」と言って、レットを連れ戻す方法は後で考えることにしてとりあえず故郷に帰りましょ、と希望を胸に抱いて幕は閉じる。えっ?

すべてを時代のせいにするのはよくないが、不朽の名作というのはありえないのかもしれないと感じた。あまりにも突拍子がないのだ。あるいはこの物語は、壮大な皮肉をこめて「ワガママなスカーレットのまわりからは、風と共にみんな去っちゃったのよ」というお話なのか。

あの時代に、あのセットや撮影技術、カラーの映像、莫大な予算、映画全体の規模はそうとうなもので、アカデミー賞9部門受賞も納得できる。きっと世界は度肝をぬかれただろうし、日本人もこれを見ていたらアメリカに勝てるなんて思わなかったかもしれない。

とはいっても、奴隷制度や黒人の描き方も含めて偏りの多い作品であることも事実で、見る人の心までもが風と共に去ってしまわないことを祈るばかりである。

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