映画『バードマン』超ネタバレ!ラストシーンに隠されたライラックの謎とホイットマンの詩について

先日、胃が痛くなるほどの衝撃を受けた映画『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡) 』ですが、やっぱりあのラストシーンが気になってしょうがないんですよねえ。

僕なりの見解に加えて、ネットで見つけたそれぞれのラストシーンに対するレビューや文学的背景を加味して、まとめてみました。

もうぜんっぜん見当外れかもしれないし、完全な超ネタバレなので、まだ見てない人は読まないでね。

ラストでリーガンはどうなったのか?

さて、衝撃的なクライマックスシーン。主人公リーガンは舞台でホンモノの拳銃を自分の頭にぶっ放すわけですが、間一髪銃弾はそれて一命を取り留めます。

その後、病室のシーンが始まるんだけど、ここで映画の冒頭から続いた超ロングショットが途切れるんです。

つまりこの映画、約1時間45分の長ーい1カットと、最後の病室の15分の1カットの2カットで構成されているわけです。

やたら奇妙で、象徴的で、アヤシイでしょう。

ここで2つのパターンが考えられます(長いので結末が知りたい人はパターン2へ飛んでください)

パターン1:リーガンは鼻だけぶっ放した ⇒

まず考えられるのが、語られるストーリーそのまま、リーガンは間一髪、鼻だけをぶっ放してどうにか生きのびたというパターン。

リーガンはバードマンのマスクと同じような形に巻かれた包帯を外して、トイレにいるバードマンに別れを告げます

このシーンはつまり、これまで自分を苦しめていたバードマンの呪縛(幻覚)だけを撃ち殺して、過去の栄光からようやく解放されたことを表しています。

けれどリーガンは病室の窓に向かい、サムが部屋に戻ったときにはもう彼の姿はありません。サムは窓から下を見下ろし、何も見つけられずに空を見あげ、安堵の笑顔を浮かべます。

⇒ 超能力で空を舞った?

このパターンで考えられるのは、まずリーガンが本当に超能力を使えていた説

リーガンは冒頭から、共演者を意図的にケガさせたり、手を使わずに部屋をメチャクチャにしたり、NYの空を飛びまわったりと、いろんな場面で超能力を使っていました。

だからラストでも、ようやく目標を成し遂げて、鳥たちと喜びと共に空を舞ったのかもしれません。

でも、これはないでしょう。

リーガンは独りの時にしか超能力を使っていないし、舞台監督がいるときには自分の手で部屋を壊していて、手をケガしていたし、街を飛んできたようでも、タクシーに乗っていました。

だから彼の超能力は「みんな気づいていないけど、自分には隠された才能があるんだ!」という理想を現実化した幻想であったと考える方が自然でしょう。

⇒ 窓から飛び降りて死んだ?

次に考えられるのは、薬物中毒のサムが幻覚を見ていたという説です。

つまりサムが窓から下を見下ろしたときに、地面にはリーガンの死体があったのだけれど、ドラッグでラリっていたサムは、空を舞う父親の姿を見ていたという。

サムは傷つきやすいガラスの十代で薬物にも依存していたけど、じつはイカれた登場人物の中では比較的真実をとらえていて(芸術に狂っていないから)、「リーガンが幸せになるにはもう死ぬしかない」という残酷な真実を見抜いていたんじゃないだろうか。

だから、リーガンの魂が空を舞う姿を見て、「パパよかったね」と安堵の笑顔を浮かべたという。

うーん、でもこれもなんか違う。

パターン2:銃で頭を撃ち抜いて死んでいた

やっぱり自然なのは、舞台で死んでいたと考える説でしょう。

1時間45分の超ロングカットで現実は終わり、その後の病室のシーンはすべて「リーガンが死後に見た世界」あるいは「リーガンが願った理想の結末」なんじゃないでしょうか。

冷徹な辛口批評家タビサは、新聞で「『超現実主義』という演劇メソッドの新時代を切り拓いた」と絶賛したんだけど、よく考えてみると、舞台で「演技」ではなく、実際に「死んで」見せる、というのは、演劇という芸術そのものを否定しているわけで、評論を生業にしているタビサが、それだけで簡単に手のひらを返すとは思えない

しかもテレビでは多くのファンがリーガンの復帰を願っているというシーンが流れたけど、あれはどう見ても死者を悼んでいるようにしか見えない。

つまりやっぱり、リーガンは死んでいたのです。

隠されたホイットマンの詩と、死後の世界の象徴「ライラック」

キーとなるのは、サムが病室に持ってきた「ライラック」の花です。

かつてアメリカの国民的詩人ウォルト・ホイットマンは、リンカーン大統領の死を悼んで「先頃ライラックが前庭に咲いたとき」という、とても有名な詩を書いています。

その詩の中では、星とライラックとツグミ(という野鳥)が3つの象徴として描かれていて、

「西の空に沈んだ大きな星」がリンカーンを、

「ライラックの花」が死後の世界を、

「ツグミ」が残された者の哀しみを、

それぞれ象徴していると言われています。

冒頭にも途中にも、隕石が落ちていくシーンがあったし、サムが持ってきたのはライラックの花だし、空を舞っていたのはツグミ(が表す鳥)だし、ラストシーンのベースにこのホイットマンの詩が存在するのは明らかです。

バードマンというスターが地に墜ちた後の、死後の世界と、それを見届ける娘の姿が、あのラストシーンに描かれていたのです。

ちなみにこの詩は、パウル・ヒンデミットというドイツの作曲家が作曲した「愛する人々へのレクイエム」という鎮魂歌にも使われています。

さて、そう考えると、『バードマン』は決して再起の物語や希望の物語ではないような気がしてきます。

娘であるサムだけには、「パパが幸せになるには、もう死ぬしかないのよ」とわかっていたと、そんな風にすら思えてきます。残るのは明日を生きる希望ではなく、暗澹とした絶望。

そこまではよくわかりません。あるいは本当に、タビサは心から絶賛していて、無知がもたらす予期せぬ奇跡が、世界中を感動させたのかもしれません

でも僕個人としては、そうじゃないと思っています。そんな安直なハッピーエンドを、イニャリトゥ監督が用意するとは思えません。

命を張っても、懸命に努力しても、必ずしも報われるとは限らない。それが人生です。

それでも、何か清々しい爽快感が心に残るのは、それもまたひとつの「しあわせのかたち」だからじゃないでしょうか。

世の中には最後まで認められなくても、舞台でカムバックするという目的は達成できなくても、精いっぱいやって、自分自身や愛する娘が満足できれば、それこそが幸せな人生なんじゃないでしょうか。

そしてリーガン自身は気がついていませんが、彼はバードマンとして、世界中の多くのファンに愛されていたのです。

そう考えると、冒頭のセリフ、レイモンド・カーヴァーの詩にも頷けるというものです。

「たとえそれでもきみはやっぱり思うのかな、 この人生における望みは果たしたと?」
「果たしたとも」
「それで、君はいったい何を望んだのだろう。」
「自らを愛されるものと呼ぶこと、自らをこの世界にあって、愛されるものと感じること」

予告編

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参考記事

▶ What Is the Meaning of the Lilac Flower? | Garden Guides
▶ 先頃ライラックが前庭に咲いたとき – カームラサンの奥之院興廃記
▶ 掲示板:クラッシック音楽 友の会|Beach – ビーチ

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