映画『トゥルー・ロマンス』で、ブラッド・ピット演じるジャンキー青年が住んでいた小汚い家が好きだった。
ごちゃごちゃと散らかった部屋は豊かな陽光に包まれて、扇風機がよどんだ空気をかき回している。怠惰な青年は煙草をくゆらせながらソファに寝そべって日がなテレビを眺めてすごす。舞台はデトロイトだったはずだが、彼の家はカリフォルニアとか西海岸の方だったかもしれない。
ゴミや衣類が散乱していたり、掃除を一切しないような汚れきった部屋はもちろん論外だが、本だとかおもちゃだとかガジェットだとか楽器だとか、身のまわりにあるだけで愉しくなっちゃうような “命のある” ガラクタの山の傍らにいるぶんには、むしろ心が落ち着いてくる。いや、浮ついてくるのか。
部屋や机が散らかっていると頭や心も整理されない、というようなことを、断捨離やライフハック的な界隈から耳にすることがあるけれど、それも一概には言えないんじゃないかと思う。
先日テレビで見た林真理子さんの書斎もそうとうにごちゃごちゃしていたし、今にも崩れそうな書籍の山に囲まれて仕事をする文筆家は少なくない。
まあ考えてみると、文章で表現するというのは、ある意味で頭の中の混沌を整理して吐き出す行為なのだから、部屋自体は雑然としているほうが自然なのかもしれない。というのは深読みしすぎかもしれない。
とはいえ単純にとっ散らかった部屋が好ましいというわけでもないんだな。
まず、適切な場所に片づけなければならないものが散らかっている、というのはダメだ。整理したいんだけど時間がなくて(あるいは面倒で)整理できない、というのは、心にわだかまりが残って仕事に集中できないだろうし、いつまでもその状態を改善できない自分に対して嫌気が差して自己肯定感も低下していくよね。
他人から見ればとっ散らかっているように見えても、本人にとっては、すべてのものが “ベストな” 場所に適切に置かれている、というかたちが望ましいのだろう。
こういう性癖って生い立ちが大いに関係していると思うんだけどどうだろう。幼少期に暮らした家や街の雰囲気を大人になっても求めてしまう人はけっこう多い。僕だってこれまでいろんな場所に住んできたけど、けっきょくは実家のある東京の港区とかよりも、子どもの頃暮らしたような自然に囲まれたちょっと田舎のほうが心地いいんだよな。全寮制の男子校というカオスな牢獄に6年間も閉じこめられていた影響もあるのかも。
つまり何が言いたいんだかよくわからないけど、やっぱり人それぞれ嗜好や価値観てのは違うもんで、みんな好きなように生きればいいんじゃね、という投げやりで強引なまとめでよろしいでしょうか(笑)。ひさしぶりに『トゥルー・ロマンス』観てみよう。