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「ブログ書いてくれないんですか?」という、嬉しい催促をもらったが、なんでもない日常を送っているので、書くことがないのである。だって本当になんでもないんだもの。

でも、なんでもない日常って、すごく楽しい。これはもう本当に、びっくりするくらい。目の前で起こるあれこれをじっくり見ていると、どうして今まで僕は何も感じなかったのだろう、気づかなかったのだろうと不思議に思う。けれど、それは人に説明したり勧めたりするようなことじゃないから、言わないし書かない。

僕の暮らしなんて他人には関係のないことだし、インターネットでは、なんでもない日常は必要とされていないから。地味で静かでなんでもない日常なんて、誰も見たくない。だから今はそっと生きています。

朝起きる。酒が残っている。歯を磨く。硬くなっている身体をほぐす。シャワーを浴びる。珈琲を煎れる。大坂なおみが泣いている。子どもたちが慌てて登校する。ツイッターで誰かが誰かの文句を言っている。部屋の壁が白い。猫が爪を研ぐので壁紙が剥がれている。読みかけの本が山積みになっている。カップラーメンの湯を沸かす。雨が降っている。ただそれを見ている。何かが起こるのを見て、その空間を通過しているだけのような気がする。

丁寧な暮らし、なんて言葉で括られたくないけれど、丁寧な暮らしの分派なのかもしれないとも思う。本を読んで、文章を書いている。なんでもない日常を見つめる者にしか見えないことがあるだろうと信じて。その他は、生活を眺めているような、人生を傍観しているような気すらする。僕は今そういう局面を生きているのだと深く納得しながら。

原子の集まりでしかない僕ら人間が抱く意識というものは幻想なのだという。喜んだり哀しんだりといった感情の動きは、脳の電子信号が反応しているに過ぎず、僕らはオートマチックに動いている〈自分〉や〈人生〉というお芝居を観劇しているだけなのだという。僕がコーヒーカップを手にするとき、その数秒前には脳がそれを決定していて、僕はただ勝手に動く自分を眺めているだけである。

運命とは何か、なぜ僕の部屋の書棚にダウンタウンのフィギュアがあるのか、そんなことを考えながら、なんでもない日常を暮らしている。そしてさっき、なんでもない日常を好きなように書き散らしても誰にも文句を言われない場所があったのだと思い出して、今ここにこれを書いている。

先日。二子玉川近辺を歩いてきた。北参道で散髪して、ホープ軒で脂と炭水化物を補充して、二子新地駅で降りて、住宅街を歩いて、街の風景を写真に撮って、気になった中華屋を覗いて、二子橋の下にしばらく座って、それから橋を渡って、多摩川を両側から見比べて、どこにも寄らずに帰ってきた。なんでもないのだけれど、とても充実した時間だった。

中村文則が小説の中で「生きることに意味などないことは、私にもわかっていた」と書いていたのを思いだした。その言葉は長く深く丁寧に書かれた長編小説の中で、路傍に咲くなんでもない花を描写するように、さりげなく、すぐに忘れてしまいそうな儚い佇まいで書かれていたが、僕の心にはずっと残っていた。「生きることに意味などない」なんてことばかり考えている僕に、今ブログやネットで書くべきことはないように思えた。

中村の文章はそれから「私は自分を取り巻く生活の枠の中で、それは酷く小さいものだったが、その中で、死ぬまで生きることを決めた」と続いた。僕はその通りだと思った。

いずれまた違う局面が訪れることも予感しているが、今はこれでいいのだと思う。夏が終って、秋が来ただけだ、とも思う。僕は九月が一番好きだ、と最近思う。

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