午後、茅ヶ崎を出て、恵比寿で降りた。
駅前のモンベルで小一時間、店員さんにベースレイヤーとメリノウールとダウンと防水フィルムについてレクチャーを受けて、いくつかの防寒ギアを買って、店を出た。
日比谷線で広尾へ行き、墓参りへ向かう。通りを風がぬけていき、陽光が心地よい。
いつもの花屋で花を買う。紫の綺麗な花束を選んだ。境内にも風が吹いて、野良猫が気持ちよさそうに眠っていた。
黒と焦げ茶の混じったふてぶてしい猫は、僕を見つけるとかしましく鳴いた。近づいてみると、両耳が千切れて、芋虫みたいに丸まっていた。片目も潰れて半分閉じていた。
見た目はなかなか壮絶だが、彼女はとても元気そうで、ちょっと楽しそうで、なんだか嬉しくなった。
両手に供花と水桶と柄杓とモンベルの袋を提げて、広い墓地を歩いていく。
年配の男性が墓前に腰掛けて文庫本を読んでいる。その足の下にも猫がいる。風が木々を揺らした。猫が茂みに隠れた。
親父の墓前に立つ。まだ新しい大きな百合の花が供されていた。ピンクのゴルフボールも置かれていた。
特別な日ではないのに、墓参りをしてくれる人がいるというのは、親父は幸せもんだな、と思う。
生前、親父がそれだけ人をしあわせにしたってことかもしれない。
考えてみれば、一人でこんなにゆっくり墓参りに来るのは初めてだ。
不作法かもしれないが、僕も荷物置きに腰掛けて、しばらく空や木や墓石や土を眺め、遠くの街の喧騒に耳を澄ませた。
墓前に佇みながら、親父はここにはいない、そんな気がした。
死者は、ただ、無に還る。動物や虫と変わらない。死んだら、すべて、終わり。
だけど、やっぱり、残った人の心には残るなあ、生前よりずっと大きく、いるんだなあと、思う。
とくに感謝や言葉を思ったわけじゃない。
ただ、親父がこの世に生を受け、生き、僕が生まれ、こうして生きている、その連綿と続く生と死の繰り返しのふしぎさに、ぼんやりとした安堵と幸福感を得た。墓参りって、そういうもんかもしれない。
広尾商店街の銭湯でのんびり湯に浸かるのを楽しみにしていたのだが、残念ながら定休日だった。次から水曜日以外の日に来ようと思う。
時間があったので、六本木ヒルズで『バスキア展』を見た。バスキアはクールだったが、隣でやっていた塩田千春展のほうが盛況だった。
後でネットで調べてみると、塩田千春さんの作品というのは、たしかに心に不穏で強烈な印象をもたらすもので、興味深いものばかりだった。普遍というものはあるけれど、時代の風やニーズもまたあるのだなあと思った。
北参道の美容室で髪を切って、新橋で中学からの仲間とメシを食ってビールを飲んだ。
こいつらは変わらねえなあ、と思いつつ、僕だってなんだかんだ真ん中は変わっていないんだよなあと思う。
親父が死んでから、僕の表層にはいくつかの大きな変化があったけれど、それは、何か大切なものを忘れていただけな気がする。
時間が経つにつれて、今、僕はそれらを思いだしている。
名も知らぬ後輩がやっている銀座のバーのカウンターで、中学生の頃と変わらぬ下品な話をして、家路についた。
帰りのタクシーでは、乗車してから降りるまでずっと、運転手さんの会社の愚痴を聞く羽目になった。
てきとうに聞き流そうと思ったが、なかなかの剣幕で、いろいろ溜まっている様子だったので、僕も気が変わって、きちんと向き合って話を聞いてみた。
そりゃ大変だよね。言えないもんね。ありがとう。そんな大変な中、仕事してくれて。助かったよ。
降り際に僕が言うと、彼女はしばらく僕の目を覗きこんで、ゆっくり頷いた。
コンビニでビールとハイボールとフライドチキンとサラダを買って、家に帰った。コメディ・ドラマを観てたくさん笑って、ベッドに入ると、猫が潜りこんできた。