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今夏、自分で自分を褒めてやりたいのは、家のバルコニーにウッドデッキを増築したことと、ハンモックを買ったことだ。

暑さもすこしなごんだ盛夏の夕暮れに、ウッドデッキに出てハンモックに揺られながら本を読むたびに、竜、よくやったぞ、と心の裡でつぶやいてガッツポーズを握りしめている。金メダルをかけてやるぞ。

理由はいくつかあって、夏好きな僕が部屋の外に出て季節の感触をめいっぱい味わえるというのももちろんなのだけれど、それ以上に大きいのが、そこに日常の外にあるような、ゆったりとした時間の流れが用意されていることだ。

ハンモックに揺られながら本を読んでいると、ほぼ完全に本の中に侵入することになる。紀行文を読んでいれば、僕はすんなりとボストンやキューバやアイスランドに旅立つし、推理小説を読んでいれば、とびきり頭の切れる探偵の脳と同化する。

そうやって、丁寧にじっくりと紡がれた言葉を身体に入れているうちに、僕の頭の中もじっくり丁寧になっていく。ひとつひとつの思考が、深く、冷静に、ときにミクロに、ときにマクロにと、視点や視野を移動させながら、かろやかに流れだすのだ。

本を読んでいると、ときおり、そこに並んだ言葉に触発されて、日常のあれこれ、個人的なあれこれ、人生のあれこれが思い浮かんでくることがある。そういう日常の些細なこと、あるいは人生の大きな選択を、じっくり丁寧に扱うことができる、というのが、ウッドデッキ&ハンモックの最大の利点であり、最高の魅力である。

ひとことで言うと、静かになる、のだ。

ふだん慌てんぼうでつまずきがちな僕が、地に足を着けて(いや、身体はハンモックに浮いているんだけど)、物事を客観的に冷静に考えるようになる。

僕という人間にふさわしい(間違っているかもしれないけど、背伸びも無理もしない)答えは、そういうふうに心身から力が抜けていないと、生まれてこない。いや、生まれるというよりは、流れてくるような感じがする。ボブ・ディランの言うように、答えはいつも風の中なのかもしれない。

やがて何の淀みもない自分なりの答えに辿り着くと、僕はふっと安心して、またあらためてヨーロッパの小国に旅立ったり、密室殺人の犯人を推理したりしはじめる。その繰り返しが、えもいわれぬ心地よさなのだ。

僕はほとんど毎日、自宅の書斎で仕事(と呼べるものなのかわからないけれど)をしているせいもあって、書斎という名の自室にいると、心からリラックスできないようになってしまったらしい。書斎はあくまで何か生産的な作業を営む〈仕事場〉であって、ゆったり本や漫画や映画に触れるような空気は流れていないのだ。

そこで、ウッドデッキに出て、たとえ異常気象の猛暑に眉根をしかめることになったとしても、ハンモックに揺られると、自分にすっと許可がおりるのだ。力を、抜いて、いいんだよ、と。

もちろん僕が会社勤めをしている人なんかに比べたら、時間に余裕があるから、そんなふうに静かな時間に辿り着ける、というのもあるだろう。会社員時代を思い出せば、それはなかなか難しいだろうな、と僕も思う。

けれど、それこそよくよく考えてみれば、どんな仕事や生活をしている人であっても、時間の使い方を意識的に捉えて、自分のやりたいことに照らし合わせて適正な〈選択〉をくだすことができれば、〈ハンモックの時間〉を持つことは可能なのではないかと思う。

そして、そのような時間こそが、僕らがなるたけ好きなように自由に生きるために、本当に本当に大切なことなのではないか、とつくづく思う。

「本を読む時間がないという人は、本を読まないから時間がないのだ」

と言ったのはたしかゲーテだったが、それと同様に、

「物事をじっくり考えて、落ちついた判断を下す時間がないという人は、物事をじっくり考えて、落ちついた判断を下さないから時間がないのだ」

ということになる。

小説家や音楽家や芸術家が、散歩や旅を好むのは、日常の外に身を置くことで、じっくり丁寧な思考に入りこむためだろう。

あるいは禅に傾倒したスティーブ・ジョブズや、働く時間と同じくらいの余暇を楽しむビル・ゲイツ、冒険三昧のリチャード・ブランソンみたいなビジネスマンたちだって、一見〈無為〉な時間を持ち、自らの内なる衝動と真摯に向きあっているから、結果として僕らが考えも及ばぬイノベーションを生み出すんじゃないだろうか。

ひととき、他者や社会から自分を引き剥がして、自分の内側と向き合い、ひとつひとつ丁寧に答えを紡いでいくような静かな時間、そんな〈ハンモックの時間〉の対極にあるのが、インターネットだろう。

ネットというのは、とにかく慌ただしい場所である。スピードこそが命であり、簡潔で正確であることがよしとされる激しい情報の濁流の中で、落ちついて何かを見たり読んだり考察したりすることは難しい。少なくとも僕には至難の業だ。

僕はブログを書いて、ネットに文章を書いて、それらをフェイスブックやツイッターで共有したり、遠い友人たちとメールでやりとりをしたりもするし、一日のうちのけっこうな割合をインターネットの中で過ごしていると思う。

だからこそ、日常のあらゆる瞬間がネットに繋がる現代に、意図的にハンモックの時間を用意することは、当然必要になってくることなんじゃないかな、と思ったりする。とくに僕のような慌てんぼうには。

なにはともあれ、ハンモックの時間は心地よいのである。そして、心地よい、というのが、この世の真理のほとんど唯一と言えるであろう〈正解〉なのだと、僕は思っている。

さて、そろそろ外へ出ようか。