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中村文則の『私の消滅』という小説は、心の闇とは何か、を克明に描く。

その前にまずもって、中村の簡潔で的確な描写は読んでいてじつに心地よい。彼の文章に立ちこめる匂いや温度がまた僕の感覚にフィットする。ほどよくドライで、ほどよく温かく、ときに過剰に恐ろしい。村上春樹ではくどすぎるし、平野啓一郎では美しすぎる、というような。それに加えて純文らしくない多層構造のミステリーが下敷きになっていて、まったく参っちゃうぜ。抱かれてもいいか。

本作では、精神科医が、人の脳やら記憶やら過去やら心の傷やらをいじくりまわすので、心の理や脳の働き、精神分析が多く描かれる。

それは昨今、心屋仁之助に代表されるような悩み相談の延長線上にある心理カウンセリングのようなものではなく、ユングやフロイトたち過去の心理学者が(あるときはおぞましい実験をしながら)積み上げた学術的臨床的研究成果としての詳細な心の理(ことわり)である。

それらが、宮崎勤などの実在の犯罪者の事例を用いながら生々しい人生のドラマの中で描かれると、ひどく心が揺さぶられる。その揺さぶりによって生まれた歪みのような心の裂け目に、いろんなものが染みいってくる。怖い。けれど頷いてしまう。哀しい。けれど諦めて前を向ける。

苦悩の根っこには傷がある__因果と解釈

僕も<心の理>については専門的に扱ってきたのである程度の心得はあるのだが、乱暴にいってしまえば、苦悩の正体は「現実と解釈の混乱」と言える。悩みというのは、ただそこにあるだけの現実を、本人がどう「捉えるか」「受け取るか」「解釈するか」で生まれる。

たとえば今、わが家の飼い猫・かりんは、後ろ足骨折治療の療養として一日中ケージに閉じこめられていて、最近は痛みも減ったようである時間になるとケージから出たくてニャーニャーニャーニャーと狂ったように鳴き喚く。家内も子どもたちも慣れたもんでその鳴き声はひとつも気にならないらしいのだが、僕だけはいつもその声がかわいそうでたまらず心を震わせ、落ちつかなくなり、不安になり、しまいにはイライラして部屋を出てしまうこともある。

それは僕が、「ケージから出たくて鳴き騒ぐ猫」というアタリマエの現実に対して、これはあまりに哀れだと解釈し、過剰に反応しているにすぎない。家族にとっては、猫が閉じこめられてるんだから鳴くのはアタリマエでしょそんなの、というところか。

その要因を僕はうっすらと知っている。僕は幼い頃いつも悲鳴を上げていた。けれどその声は誰にも届かなかった。自分は悲鳴をあげてはいけないんだと学んだときについた心の傷が、同じような状況が再現されるといまだにうずくのだ。隣家の赤子が泣き叫んでも、映画でレイプシーンを見ても、僕はいたたまれなくなり、手足が震える。たとえそれが猫であっても。

このような「現実」と「解釈」を別個に切り離して自覚することができれば、僕らはいくぶんか落ちつくことができる。傷自体が癒えなくとも、これは問題ではなく、傷なのだ、と。

心理カウンセリングとスピリチュアルが密接に絡み合うのも、ここに要因があるのかもしれない。

「解釈」は、心の領域だ。あなたの心には幼い頃に付けられた傷がある__その傷があなたの解釈を歪めている__あなたがわるいわけじゃない__解釈をすこし変えれば大丈夫だ__という心の理を明らかにすることで、悩む必要がないのだとわからせ、安堵をもたらす。

「現実」は「因果」とも言える。この世界のあらゆる事象は、原因があって起こっている。あなたの旦那が暴力をふるうのにも、深く長い理由がある。より巨視的に言えば、ビッグバンによって宇宙が始まったとき、すでにあなたが殴られることは決まっていた。必ずしもあなたや旦那に非があるわけじゃない。ビリヤードのブレイクショットのように、現実は球が球に当たって転がるように繋がって起きているのだ。

本作で中村はその連綿とつづく因果の暗い部分を「黒い線」として描いている。因果を人生論的に言えばそれは「運命」であるし、それを「宇宙の法則」と呼べば、スピリチュアルに繋がるだろう。

___心の作用によって生まれた解釈の歪みを是正し、アタリマエに起こっている現実・因果を受け容れさえすれば(自分は自分だと諦める)、人は誰だってしあわせになれる。

というのが心の平穏をもたらす理想ではあるが、これはやっぱり理想であり、誰もがそう簡単に辿り着けるものでもないし、果たしてそんな達観がしあわせなのか、とも思ってしまう。

心理カウンセリングからスピリチュアルの世界に入り、そこから抜け出せなくなった人は、あらためて「事実」と「解釈」を切り離して考えてみるといいかもしれない。あなたは、スピリチュアルが教えてくれる「事実(因果)」に寄りかかるのではなく、心の理が教えてくれる「解釈」を変えるべきなのかもしれない。長くなるのでやめよう。

犯罪者と僕の間にどれだけの違いがあるというのか。

宮崎勤の精神構造や犯行に至るまでの経過を分析した記述は奥深く、何度も考えさせられた。

僕はその箇所を読んで、かつて若い頃 ——20代前半——に、小説家を志した動機を唐突に思い出した。

あの頃、毎日に自分でも正体のわからない息苦しさを感じていた僕は、宮崎勤をはじめとする世界中の猟奇殺人者や精神異常者について調べていくうちに、彼らと自分の間にどれだけの違いがあるというのか、という思いを強くしていった。

僕は殺人を犯さないが、それはたまたま僕が彼らより運がよかっただけで、彼らと同じ境遇に生まれ育ったなら、同じことをしてしまったのではないか。

もうすこし道を誤ったら。もうすこし違う場所に育ったら。もうすこし何かが違ったら。

そんなときに、親友とも呼べる友人がアルコール依存症およびそれに付随する精神疾患で海辺の施設に閉じ込められたと聞いて、僕は小説を書こうと思い立ったのだった。彼と僕の間にどれだけの違いがあるというのか。それを誰かに叫びたくて。

その動機こそが、犯罪者、あるいは道を誤ってしまう者、病を患ってしまう者と、一線は越えなくとも、心に暗部を隠し持ったままどうにかこの社会の枠組みに無理やり心身を合わせてぜえぜえ言いながら生きている者との間に浮かぶグラデーションだった。

宮崎勤は狂っている、と片づけるのは簡単だ。だが彼は、どうしてああなってしまったのか。幼女を殺害したのは本当に彼自身だったのか。遠因となったいじめ加害者たちは今ものうのうと暮らしているはずだ。深く分析考察していくと表面には見えない理が見えてくる。

彼は複数の精神障害を患い、許されない罪を犯し、それは擁護されるべきものではないが、僕にはもう、彼が精神異常者だとは思えない。むしろ彼はまともだったからこそ、その暗く複雑で暴力的な生い立ちに耐えきれずに、ああなってしまったのだから。

先日読んだ『誰もボクを見ていない: なぜ17歳の少年は、祖父母を殺害したのか』というノンフィクションでも、祖父母を殺害した少年の暗い生い立ちが描かれる中で、どうしようもないモンスターマザーの存在が浮き彫りになっていたが、その母親だって、そうなってしまったのには理由と因果があり、彼女を責めることに何の意味があるだろうか。

宮崎勤の精神分析のみならず、人の心の動きを詳細にあぶり出していくと、何が悪で、誰に非があって、自分という人間はどのように構成されているのかわからなくなってくる。

作中で、かつてはふつうの医師だった男が悪魔の化身のように変わっていく様は圧巻だ。人はこのようにして人をやめるのか。悪魔になった彼はしかし、善悪を超越した因果を受け容れたのだ、とも言えた。神の視点を獲得したとも。

ヒトラーは担当医に毎日スピード(覚醒剤)を処方されていたそうである。ヒトラーにだって理由があり、因果がある。それはあまりに大きな代償を生んだのだが、あなたはあの時代のナチの将校の子に生まれても、今と同じ私だと言えるだろうか。

家族という洗脳

洗脳についての場面も多いんだけど、洗脳だってよく考えてみると線引きするのは難しい。作中で、ある男が惚れた女を催眠療法で洗脳して自分を好きにさせるんだけど、催眠というアンモラルな手段を用いなくとも、恋愛ってそもそも一方的な想いとか勘違いから始まるわけで、恋する相手に自分を好きにさせるという目的において洗脳との境界線が曖昧に感じられてくる。

もっとも身近な洗脳が見られるのは家庭だろう。家族という限定少人数のコミュニティの中で、世界を知らない無垢な子どもが親に押しつけられる価値観は洗脳そのものである。「人に迷惑をかけてはいけないよ」と育てられ、その「思い込み」で人生を息苦しくさせている人はごまんといる。生きてりゃ誰かに迷惑をかけている。大切なのはそれを理解して感謝することだろう。

親の教えに愛情が伴っていればそれは教育となり、愛ではなく不安から派生していれば押しつけになるのかもしれない。

セミナーというのもやっぱり、主催者が意図せずとも洗脳の要素をじゅうぶんに孕んでいる。密室に、同じような志を持った者が集まり、憧れのスターのような眩しい講師の言うことをみんなで聞いて、おまけに懇親会で盛り上がったりしたら、集団催眠の効果は多かれ少なかれあるだろう。もちろんセミナーや勉強会を否定しているわけではないが、学ぶという目的の他に、集うこと、強者に寄りそうことで安堵を得るという心理的作用が働いていることも忘れるべきではないだろう。

「洗脳」と呼ぶと字面も響きも恐ろしいものがあるが、心に作用する外部からの価値観、という意味で考えれば、恋愛も親のしつけも学校教育も読書も洗脳も、同じグラデーションの上にある気がしてならない。しっかり考察したわけじゃないので、ちょっと暴論な気もするけど。

人を攻撃したい気持ちを何で解消するか。

攻撃欲動が昇華する話もおもしろかった。人は誰でも生物を食べて生きるという要因から攻撃欲動を持っていて、けれど狩りをしたり攻撃したりする対象を持たない現代人は、そのエネルギーを他のあれこれで発散する、という話。

仕事に夢中になるとか、趣味に没頭するとか、不倫に走るとか、居酒屋で愚痴を言うとか、なんでもいいけど、僕らは何かを攻撃する代わりに、違う何かで代替しているのだ。

それが、スポーツとか仕事とかお酒とか健全なものであるうちはいい。もう少し包容力を持てば、ちょっとした浮気やギャンブルだって許容範囲かもしれない。けれど、そういう社会的倫理的に許される何かで代替できなくなったとき、人は一線を越える。

村上龍の『イン ザ・ミソスープ』という小説に出てくる猟奇殺人者・フランクは、ポップソングを聴くように人を殺めた。僕らは素敵な音楽を聴くと心が昂ぶるが、フランクのような人間は、同じような昂ぶりを殺人によってしか得ることができない。そういう人がいる、ということだ。

この辺は、古谷実もずっと書いてる。

攻撃欲動の昇華として犯罪を犯してしまうのは特異な例だとして、僕らに身近なのは、その代替として自分を責めてしまう人が多いということだ。

つまり、幼い頃に傷つけられたり、損なわれたりした自分を、さらに責めてしまう。それが自己否定の入り口になる。レイプされた女性が被害者であるにもかかわらず自分を責めてしまうように、僕らも傷ついた自分を否定する。その理を理解するだけで、だいぶ楽になるはずだ。

闇の奥にしか見えない光があるのかもしれない。

読後に感じたことを大ざっぱにメモしているうちに、やたらと暗い話になってしまったが、でもそういう暗いところ、ふだんは見たくない闇の部分をじっくりと見つめてみると、その先には安堵が残されている気がする。

本作に限らず、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』とかのとことん暗い映画を観ても思う。闇にも理由があり、それを明らかにすれば、闇は闇でなくなるのかも、と。

怖いものって、それが何かわからないから怖いんだよね。僕はこの小説を読んで、猟奇殺人者や性犯罪者の気持ちや考えが、より近くに感じられるようになった。彼らを理解することはできないが、以前よりはずっとちゃんと見つめられるようになったような。

僕も、中村文則のように、”この世界の背後に溢れる様々な黒い線、そのダメージを少しでも沈めるように” 生きていけたら、と思う。共に生きましょう、とも。