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ようやく『マチネの終わりに』を読み終えたのは、近所にある岩盤浴の休憩スペースだった。

ここのところ深酒が続いた身体からデトックスされた大量の汗を身にまといながら、最後のページを繰るときはさすがに指先が震えた。なにせこの小説を読みはじめてから半年も経っていたのだから。

これまでこんなに長い時間をかけて小説を読んだことはなかった。すぐに熱くのめり込んでしまって数日で読了するか、好みにフィットしなければもういいやと放り出して二度と開くことはないかのどちらかなので、一冊の小説を読むのに六ヶ月もの時間を要したのは非常に “まれな出来事” だといえた。

僕はその半年のあいだに、他にもいくつかの小説や映画、音楽、漫画やTVドラマなど、様々な表現に触れてきたし、人生において二度とあるかどうかといった大きな変革も経験したし、もう楽になってしまいたいと思うくらいつらい夜もいくつかあった。

そんな日々の中で、じっくり時間をかけて読んだ小説の登場人物たちは、もはや他人とは思えなかった__本当に誇張なくそう思う

僕とは別世界に生きているような天才クラシック・ギタリストも、巨匠と呼ばれる映画監督を父に持ち、世界を飛び回るジャーナリストの女性も、一瞬の高揚で愛の使い方を間違えてしまった弱き人も、愛され健全に育ちながら心では自立できないアメリカ人も、みんな、長いつきあいの友のような、あるいは彼らすべての人格が僕の中に存在するのではないか、という気すらしてくる。

この小説に限ってこれだけ時間をかけて読んだのは、その前に本作の著者である平野啓一郎さんの『本の読み方 スロー・リーディングの実践』という新書を読んで、ゆっくりじっくり読むべき書物があるのだということをあらためて思い知ったからで、その指南通りに、わからない単語はほぼすべてiPhoneにインストールしている辞書で調べながら、わからなくなったり忘れてしまった箇所はページを戻って何度も読み返したり、時間が空いてしまったらその章の始めから読み返す、というように、まるで一生をかけていつくしむように、じっくりと時間をかけて読みすすめたのだ。

そのおかげもあってか、読了直後の感慨はひとしおだった。__終わったという一種の達成感がありながらも、__これからこの物語が僕の人生のなかで生きていくのだ、終わりでなくはじまりなのだ、というたしかな直感も同時にあった。

これからまた、躍りあがるような喜びに包まれた日も、ベッドに丸くなってしんどさに耐える夜も、ときに、この物語とそこで語られた言葉と彼らの迷いや選択を思い出しながら、僕は生きていくのだろうと、いささか大げさなことを思った。人生に残る物語とは、そういう類いのものなのだろう。

毎朝のようにビーチで甲羅干しをしながら読んでいたので、紙の本は砂と潮に汚れ、傍線と折り目だらけでボロボロになってしまったが、そのくたびれた姿すらも、ある別の人間が長い時間と深い労力をかけて文章を書き、僕というまったくの他人の中にこれだけのものを残すためには必要不可欠な業だったのではないか、という気がしてくる。

思わずのけぞってしまうような、深くうなだれてしまうような、心身に刺さる言葉が方々にちりばめられ、そのひとつひとつを噛みしめながら読んだのだが、今の僕になぜか大きく残っている響きのひとつは「粗雑」という言葉だった。

平野啓一郎の精緻な文章によって綴られる人間の心の動きの細やかさに触れていると、僕のこれまでの人生の扱い方のなんと粗雑だったことか!__を思い知るのである。

自分が好きなこと、人生で為したいこと、嫌いなもの、苦手な人、大切な人にかける言葉、仕事に対する姿勢、といった、そういう “自分自身” を、僕はこれまでどれだけぞんざいにしてきてしまったのかと、しばらく呆然とした。

僕のような人間は少なくないと思う。幼少期から、自分以外の誰か別の人___親だったりまわりの人だったり__のために、自分自身を殺して、他人の人生を生きてしまった人は、この物語を読んで、あらためて ”人生の主人公” たる自分について大切に考える機会を得ることができるかもしれない。

もちろんそれだけじゃない。この小説には、知るべき世界、感じるべき愛情、浸って心身をゆるませる場面、人生の喜びや哀しみがたっぷりと染みこんでいる。

ミステリー作家の福井晴敏が言うように、映画のような尺の規制がなく、漫画のような人気によって長短が左右されることもない小説は、「もっとも自由で容量の大きいメディア」であり、他の方法ではとうてい語り尽くせない、他人の「人生そのもの」を届けてくれる、唯一の表現であるのだと、あらためて実感した。

二時間の映画では決して伝わらない、精緻で奥深い世界を、ぜひ味わってみてほしい。あらゆる芸術に言えることだが、時間をかけてじっくりと向きあった表現は、きっとあなたの人生を底から豊かに支えてくれるだろうから。

コピーやライティングの世界では「ワンメッセージ」が大事とされるが、小説や物語などの表現には逆に、数え切れないほどのメッセージが込められている。あなたにはどれが届くのだろうか。小説は紙の本のほうがすっと入ってくるけど、これはKindleも買っちゃおう。じゃあね。

作中に出てくる楽曲を集めたCDもあるでよ