夫婦喧嘩というものをほとんどしないのだけど、数年前、ちょっとデカいのがあった。ケンカというか、奥さんがいきなりドカンと大爆発したのだ。
今でもあのときのケンカの理由ははっきりしてなくて、たぶん本人にもわかってないと思うんだけど、なんかもうとにかくいろいろ溜まって、ふだん寡黙な彼女が噴火したのだった。
ちょうどボクの親父が死んで、誰もが混乱していたし、慣れない仕事に就いて、引っ越したり、転校したり、人生の転機が一気にやってきたような、怒濤の日々を過ごしていたから無理もない。
あの晩、ベッドルームで、彼女は叫ぶように、もだえるように、言いたいことをまくしたてた。__アレもやだった。コレもやだった。もうぜんぶヤダ。もう耐えられない。
ボクは慌てふためきながらも、__あのときどうしたらよかったの?これからどうすればいいの?と、問題を解決するためにいろいろ訊ねるのだが、彼女は、__そんなことはわからない、そんなことは関係ない、そんな話はしてない、ただ、イヤなの!と叫ぶばかりだった。
あのときは、彼女の主張が支離滅裂にしか聞こえず、__だったらどうすればいいんだよ!とボクのほうも少なからず腹を立てたものだけれど、だんだん、わかってきたことがある。
__イヤなものは、イヤ。
もう、ただ、そういうことなのである。
理屈で、これこれがイヤだから、次からはこういう風に改善しよう、なんて話はしてないのである。
論理的に、社会的に、常識的にどうであれ、私は、これがイヤなの。それを伝えたいから伝えている。これから、お互いがどうしていこうとか、そんな話はしてない。
__男性は理屈で解決しようとし、女性は感情を共有してほしい、というような、よく言われる薄っぺらいロジックはさておき、このように、__イヤなものはイヤ、と言う彼女と一緒になって、本当によかったと常々感じている。
ボクがすぐに左脳的、論理的な思考に陥りやすいので、彼女のその、__ただ、こうである、という生き方には、当初反発していたのだけれど、今は、ボクもそういう、__意味なんてない、ただ、そう、という生き方が、最高に心地よくて、楽ちんで、充実していると感じている。
先日、ある小説家が、__小説というのは、日常の思考や言葉では説明できないことを書いている、と言っているのを読んで、思わず膝を打った。言うまでもなく、小説とは、日常に対して垂直に立つもの、つまり、芸能人の大麻がいいとかわるいとか、そんなもん超越したところから、見る、ということで。
__大変だから、大変。
ということを伝えるのが小説であると。論理ではなく、説得ではなく、ただ、それ、を書いている。__世界は、こうである。こういうことがあり、こういう人がいる。だから?なんて疑問は、ない。
だから、小説には包容力がある。だから、小説とは哲学なのだ(これ受け売りだけど笑)。悪人や犯罪者、罪や過ちをジャッジせず、包みこんでくれるのは、ただ、それ、を見せてくれるからだ。
__イヤなものはイヤ。好きなものは好き。
理由なんてない。なんてスッキリして、なんて気持ちいいんだろう。
フランス映画『アメリ』に出てくる風変わりな少女は、そんな、好きなものは好き、をまっすぐに生きている。
アメリが好きなのは、豆袋にこっそり指を入れること、クレームブリュレの焦げをスプーンで割ること、サンマルタン運河で水切りをすること、ラズベリーを指にはめて食べること。
理由なんて、ない。ただ、好きだから好き。
ボクは海が好き。ラーメンが好き。お風呂が好き。意味なんてなくて、生きてるって、最高だ。
▲ ずっとハマってる漫画。マジ最高笑。