コロナ前だから、二月くらいだっただろうか。用事があって、御茶ノ水にある〈山の上ホテル〉に何度か泊まった。
川端や三島、池波に吉行と、数々の文豪が愛した宿として有名なホテルであり、今どき都内にこれだけ風情のあるノスタルジックな佇まいの宿はなかなかないが、加えてここは立地がいい。
御茶ノ水、神田、水道橋、神保町、さらに足を伸ばせば上野、アメ横と、古書に楽器、スポーツ用品に調理器具から雑多なアレコレまで、マニアックな道具が揃った都内有数の買物エリアで、おいしいごはん屋さんもたくさんあって。
昼はエチオピアで野菜のたっぷり入ったチキンカリーなんぞを食べ、夜は街をぷらぷら歩いてドキドキしながら知らない店の暖簾をくぐるのも楽しいが、朝はやっぱりホテルのごはんが食べたい。
宿の夜はだらだらおちつかず深酒してしまうことが多いので、朝は胃にやさしそうな和食を選ぶことが多くなる。
山の上ホテルの一階にある〈天ぷら 山の上〉にて、オーセンティックな和朝食。
鮪の赤身、だし巻き卵、鮭の塩焼き、ほうれん草のおひたし、煮物、明太子、梅干し、ちりめんじゃこ、香の物、赤だしの味噌汁、季節の甘味。奇をてらわない堂々とした正統派の朝ごはん。
品のある着物を着た、おちついた佇まいの女性店員が、朝の静寂を邪魔しないよう、丁寧に給仕してくれる。
ふだん朝はコーヒーとチョコレートくらいなので、ゆっくり時間をかけて味わう朝食は胃に沁み、心も潤うようだ。
部屋で頂くこともできるが、朝の人のいない静かな時間帯に、この隅々まで磨きあげられた店内と窓の外の白い景色を眺めながらいただくのが、心地よい時間だ。
たまにはと、〈フレンチレストラン ラヴィ〉で洋朝食も食べてみる。
入ってみると、二人ほど先客がいるものの、店内はしんと静まりかえっている。
奥の壁側の席に、中年男性が一人ずつ座っている。ボクが案内されてその間のテーブルに着席すると、壁側のテーブルにオジさんが三人並んで静かに気取って朝食を食べる滑稽な絵ができあがる。
ぱりっとノリのきいた純白のテーブルクロスに、シャンデリアの照明をピカピカに反射するシルバーが眩しい。飲食店で働いていた経験が長かったせいか、さりげなくシルバーの曇りをチェックしてしまう。もちろんどれもよく磨かれている。シルバーは細かい傷が歴史を語る。
カフェ・オレが異様にうまい。ふだん家でネスプレッソのイタリアンタイプのカフェ・ラッテ、スタバでシアトルスタイルのソイ・ラテばかり飲んでいたので忘れていたが、カフェ・オレってのはこんなにうまかったか。このコクはなんなんだいったい。
プラスティック製品ではないかと疑うほどパリッパリのサラダ。合羽橋で売っている食品サンプルよりも鮮やかな色彩。両隣のオジさんをチラ見しながらモシャモシャと音を立てぬよう咀嚼する。
品よく盛られたスクランブルエッグは、カリカリに焼かれた薄いトーストの上に鎮座している。アメリカン・ダイナーのようにガチャガチャかきこみたいが、この静謐の間ではそれもままならず、こちらもナイフ&フォークをぎこちなく使ってゆっくりいただく。
和も洋も、金と手をかけた正統派でうまいのだが、なにより、これほど静かな場所でこれだけ時間をかけて朝食をいただく、という時間の流れこそが贅沢である。
だらしなくスーツを着くずし、左右に寝癖の跳ねたオジさんが、ギャルソンに、パンがおいしいけどちょっとカタいね、などと言いながら一足先に席を立つ。
残ったもう一人のオジさんはまだコーヒーを飲んでいる。二人とも朝のビジネスホテルのカフェで見かけるようなバリバリのビジネスマンとは明らかに風体や雰囲気が違う。あるいは、ああ見えてさぞ名のある方なのかもしれない。さらに正体不明で身元不明なボクはお代わりしたカフェ・オレをぐいと飲み干して席を立つ。
まだ酒の残る胃袋にミルクがもたれはじめている。世間が新しい一日をスタートさせ、隣の明治大学から学生たちの若く快活な声が響きはじめる頃、ボクはまたベッドに潜り込み、怠惰な二度寝に墜ちていく。
▲ 今ハマってる〈アンダーニンジャ〉四巻出たね。花沢さんて、悲劇を嘆かないのが好き。みんなたくましく生きてるんだもん。