爆笑問題の太田さんがテレビで、__悩み相談ダイヤルに電話したり、本を読んだりするのもひとつです、と神妙な顔で言ってた。

さらりと言ってたので聞き流してしまいそうだったけど、僕は深く何度も頷いてた。

__これまで、小説を読んで、何度救われてきたことか。

正直、__もう人生を終わりにしたい、と思うくらい混乱しているときには、小説を読んでも映画を観ても誰かと話しても、何も入ってこないかもしれない。

けれど、そうなる以前の段階だったら、小説を読むというのは本当に救いになると思う。なってきた。

かつて北方謙三が、悩める若者に、__ソープへ行け、と喝破したのは有名だけれど、同じくらい印象に残っているのは、死にたいと悩む若者に、__五十冊本を読むまでは死ぬな、と言った話しである。

読書というのはとても孤独な作業である。しかし、一人だけでイメージを結べるような世界に入っていくことが、君には必要なんじゃないか。また読書は一種の酒である。酒だから酔う。その昂揚は生きている時の昂揚であり、熱いはずだ。死に酔うような冷たい酔い方ではない。だから読書しましょう。(中略)とにかく五十冊読むまでは死ぬな。五十冊読んでみて、それでも死にたいと思ったら、また手紙をくれ。 __『試みの地平線』北方謙三

人の間と書いて人間。すべての悩みは人の間にある。読書、とくに小説は、そういったしがらみから距離を置かせてくれる。__自ら選んだ孤独は至福である、と言ったのは花村萬月だったか。

同時に、小説(哲学書でもいい)は、古今東西、数多の人が、つまるところ同じようなことで悩み、同じようなことにつまずき、その因果を解明しようと足掻き、それでも、いつの時代も、人間は同じように笑ったり泣いたりしながら生きているのだなあ、ということを、実感として理解させてくれる。理解というか、身に沁みてくる。

最近つくづく思うのだが、小説というのはけっきょく、__ただ、こうである、ということを書いているにすぎないのではないか。

世界にはこういうこともある。こういう人もいる。そこに上下や善悪や意味なんてなくて、ただ、そう、ただ、それ、ただ、そういうことがある、と。

だから小説は世界を広げてくれる。視野を広げ、心を楽にして、大切に思えるけどじつはそうでもないそれを捨てる手伝いをしてくれたりもする。

最近は、高度情報化に伴って、ロジックばかりが優先されてしまう。論理的に正しいことが正義で、心を乱したり感情的になることは愚かだというような風潮さえある。

けれど、正義のロジックで誰かを叩く人の原動力は感情であり、劣等感であり、鬱屈だったりするわけで、ロジックばかりが優先されれば、蔑ろにされた感情は行き場をなくし、破綻してしまうことだってそりゃあるだろう。

言うなれば、小説とは、__ジャッジのない世界、である。誰もあなたを責めない。どんなあなたも肯定してくれる。そこにあるのは虚構でありながら、同時に現実だ。

社会に生きるということは、上下や善悪の落差を生きることだが、そういったジャッジの及ばないところで、__自分は、ただ、こうである、__世界は、ただ、こうである、と思えることは、僕らを救うし、本来それを真ん中に思っていていいはずだ。

僕は思春期の終わりに、花村萬月の小説を読んで、__オレはオレでいいんだ、と思うことが出来るようになり、勃起しながら涙した。

山田詠美も、村上春樹も、川端康成も、中島らもも、中村文則も、夏目漱石も、みんな、__おまえはおまえでいいんだよ、と、その小説を通して僕に語りかけてくれた。

だから、というわけではないけれど、すこしでも、人生の終わりが選択肢に浮かんだ時、下を向いた目を上げられない時、自分の靴や水たまりしか見えない時、小説を読んだら、世界は変わるかもしれない。

暴論かもしれないが、村上春樹の小説が世界中で売れるのは、__世界中の人々がみんな、うじうじしているからだ。

うじうじしながらも、それを隠したり、誤魔化したり、いなしたりしながら、なるべく明るく笑って健やかに生きていこうとする姿勢が、共感を呼ぶんじゃないかな。

クリストファー・ノーランの映画も、複雑な脚本やぶっ飛んだ映像のセンスばかりが目立つけども、その根底にあるのは、__世界の見方を変えろ、っていう、やさしいメッセージな気がする。世界は、思っているより広い。ずっとずっと。

▲ コジコジは身近な哲学書。世界の見方を変えてくれる、けっこう。

IMG 3610