大学生の頃、アルバイトをしていた大衆居酒屋に、いつも開店直後にやってくるおじさんがいた。
週に一回くらいしか来ないんだけど、まだ他にお客さんがいない時間帯に独りでやってきて、いつもカウンターで熱燗をやりながら、カバーのついていない文庫本を持っていた。
おじさんは本を読むわけでもなく、椅子に斜めに腰かけて、僕や他の若い従業員をつかまえては、自分の身の上話を聞かせる。
おじさんは、昔は裏界隈の有名人だったという。
今では引退して悠々自適の生活を送っているけど、かつては名の通ったヤクザ者で、今でも街を歩いていると、若い衆がいちいち挨拶してきてうるさいのだと。
「オツトメが終わって娑婆に出たときには、黒いスーツをビシッと決めた奴らが、ムショのまわりにずらーっと並んじまってよ」
おじさんは、少しの酒で酔っぱらうといつも、刑務所から出たときの話をした。
なかなかに眉唾ものの話だったし、露骨におじさんを嫌っていた女の子のアルバイトに頼まれて、僕が接客することが多かったのだけれど、僕はおじさんが嫌いではなかった。
おじさんの話が嘘であれ本当であれ、おじさんはすごくいい笑顔で喋っていたからだ。
おじさんが店に来なくなってしばらくたった頃、店に警察官が来た。
しばらく話した後、店長が興奮した面持ちで唾を飛ばしながら言う。
「あのおじさん、無銭飲食の常習犯で、捕まったんだってよ!うちの店にも来てないかって調べに来たんだよ!」
店長や他のアルバイトたちは「やっぱり怪しいと思ってたんだよ!」とか「あんな汚い格好したヤクザがいるかよ!」とか言って笑っていたけど、僕はなぜか、すこし寂しい気持ちになって俯いていた。
* * * * * * * * *
最近、街で変な人に遭遇することが多い。
電車の中で、知らない人にやたらと話しかけるおじさん。居酒屋で何時間も店長を隣に座らせて説教する男。駅前で、小さい子どもたちに、なぜか駅ビルのパンフレットを配るおじさん。カフェの店員に不条理ないちゃもんをつけるじいさん。
あまりにも迷惑な人だと、一喝してやろうかとも思うけど、僕はいつも、そういう人たちを見ると、あの無銭飲食のおじさんを思い出す。
きっとみんな、寂しいのだ。
誰だって、寂しいのだ。僕だって、寂しい。寂しいから、家族や仲間を大切にして、今日もそっと生きている。
そんなことを考えていたら、ふと思い出したのだけれど、あの無銭飲食のおじさんは、うちの店ではいつもきちんとお金を払っていたのだった。
想像をたくましくすれば、おじさんは日銭を稼いでは居酒屋を渡り歩いて、まだヒマな時間に若い従業員をつかまえて、ひとときの話に花を咲かせるのが幸せだったのだろう。
寂しさを忘れて、人のぬくもりを肌で感じていたからこそ、いつもとろけるようないい笑顔で、頬を赤らめていたのだ。
もう名前も忘れてしまったような居酒屋だったけれど、あの場所が、おじさんにとってのぬくもりの場所だったのだと思うと、目頭が熱くなる。
現実の不安に押しつぶされそうな夜に、寄りかかることのできる人がいるというのは、最高に幸せだなあと、あらためて思う。
2014年2月4日午後7時26分。リビングのソファにて。ひさしぶりの雪に心を踊らせる子どもたちを見て微笑みながら。
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