Saobraćajni kolaps u Beogradu
Saobraćajni kolaps u Beogradu / Goran Necin
仕事で千葉へ行ったときの話だ。

成田市から下道で茅ヶ崎へ向かう途中、国道14号線に出るところに、ちょっと複雑な交差点がある。気持ちのいい五月晴れの昼さがり、国道は渋滞していて、僕の前には福山ナンバー(広島県)の大型トレーラーが走っていた。

停止線から3台目で信号を待っていたトレーラーは、側道から右折レーンに入ったが、曲がった先で何かがあったのか、途中で止まって道をふさいでしまった。

日常的に車に乗る人ならわかると思うが、混雑する都会や時間帯のこういう交差点では、無理な進入で車線がふさがれてしまうことは珍しくない。特に車体の長い大型トラックなどは、待っているといつまでもたっても進めず、そうなると後続車に迷惑になるので、ときには強引にでも前へ出ることが必要となる。そのトレーラーもなかばやむを得ない展開に思えた。

まあ、しょうがないよな、と、のどかな春の風を頬に感じながら待っていると、大げさなクラクションが鳴るのが聞こえた。

トレーラーによってふさがれた車線の2台目にいたダンプトラックが、強引に車線変更をした挙げ句に、何度も執拗にクラクションを鳴らして、窓を開けてトレーラーに向かって怒鳴っていったのだ。

車種や仕事内容が違うとはいえ、同じ運送を生業にしている者同士、もっと助け合うことができないのか、などと嘆息していると、ダンプの前にいた乗用車に乗ったおじさんの姿が目に入った。

小柄なおじさんは度の強いメガネをかけて、教習所にでもいるかのように両手を10時10分の形にして、無表情にしっかりとハンドルを握っている。ウディ・アレンによく似ている。

その後ろのミニバンの車内には、5人家族が楽しそうに笑っているのが見える。

その横の軽自動車に乗った中年夫婦は、二人ともちょっと怒ったような顔をして、何も喋らずに、前を見つめている。

車線変更をしながらトレーラーを睨みつけていく人もいる。

トレーラーは無駄だとわかりつつも、できるだけ邪魔にならないように前へじりじり進むのだが、その前にいる車は後ろのことなど目に入らないのか、前方にスペースがあるにも関わらず動こうとしない。そんな光景を尻目にオートバイがどんどん後ろから追い抜いていく。

はるか雲の上から覗きこんだら、ほんのちっぽけなこの交差点で繰り広げられている人間模様は、僕らが生きている世界の縮図のように見えた。

他人の事情を思いやれない利己的なダンプの運転手。文句を言いたいけど気が弱くて何も言えないウディ・アレン。愛する人たちに囲まれて、多少の迷惑など気にならないほど幸せなお父さん。そんなことより人生それ自体に鬱屈を抱いている中年夫婦。クラクションを鳴らしたりはしないが、じろりと睨みつける多くの人たち。後ろで困っているトレーラーなど我関せずで動かない前方車。

こうして後ろから眺めていると、すこし切ない気持ちになる。

どうして人はもっと他人にやさしくなれないのか。すべての人が、いつも笑っていることはできないのか。たかが信号1回分の短い間、待っていることができないのか。

春の陽射しとその年はじめてのあたたかい風があまりにも気持ちよかったせいで、すこしばかり感傷的になってしまったのかもしれない。

しばらくして、僕はあることに気がついてはっとした。

今こうして僕の目の前でそれぞれの反応を示す人々は、どれも、僕自身だということに。僕だって、その時の状況や気分によっては、怒鳴るダンプの運転手にもなり得るし、弱気に下を向くウディ・アレンにもなるし、家族で笑っているお父さんにもなり得る。

僕だって、どうしようもなく切羽詰まった仕事をしてイライラしているとき、無理な進入をしてきた車に必要以上にクラクションを鳴らしたことがある。気分が落ち込んでいるとき、言うべきことも言えずに黙っていることだってあった。家族で楽しくお出かけしていれば、小さなことは気にならないだろうし、自分さえ良ければ、対岸の火事など気にならない。

あのダンプの運転手だって、いつもは温厚な人かもしれないし、ウディ・アレンはじつはもっと攻撃的な人なのかもしれない。幸せそうなお父さんだって、会社では嫌な上司なのかも。

そんなふうにあれこれ想像したら、誰が悪い、なんていうのは問題じゃないんだなって思えた。

人生は、こんな曲がり角の連続だ。世界は交差点だらけで、たくさんの人たちが前へ進もうとしている中で自分の道を選び、右折して、左折して、加速して、減速して、そうやって生きていれば、些細なことで人がぶつかり合うのは当然なのかもしれない。

世界は輝いているのか、それとも哀しいのか。そんな際限のない幻のようなことを考えてしまう。

だけどたぶん、世界は輝いても哀しくもなくて、ただ世界は、そんな風なんだ。自分がどう在るか、自分がどう見るかで、世界は明るくもなるし、暗くもなる。だからこそ、いつだって隣人に優しくありたい。

「おふくろが言ってたんだけどさ、キリストの教えって『汝の隣人を愛せよ』だけなんだってよホントは。残りは他の人が付け加えたんだって」

学生の頃、敬虔なキリスト教一家に育った友人が言っていた言葉を思い出した。この言葉の真偽やキリスト教の詳細な教義には興味がないが、なんとも納得させられる言葉だ。隣人を愛する者が宗教戦争など起こすものか。

自分を許せるように、すべての他人を許し、自分を愛するように、すべての他人を愛することができたら、世界はもっとましなものになるのだろうけど。

あまりにも春が気持ちよすぎて、そんな浮世離れしたことを夢想してしまった。今日も眩しい太陽がのぼって、海風がそよいでいる。今日くらいは、世界中のみんなが笑っていられないだろうか。