さてさて。前回は、見るとか直感とかの話ばっかだったので、そろそろちゃんと旅しましょうかね。
で、朝だったのもあって、感度ビンビンで歩いて、まずは清水寺へ。
あいにくの曇り空だったけど、なんか雰囲気的にその薄暗い感じが合ってる気がしたね。燦々と晴れ渡ってたら、なんか違う気がした。
紅葉も綺麗だったけどね、線香が煙る薄暗い部屋に仏像がいくつも並んでいて、下から蝋燭の仄かな灯りに照らされてる姿は、これ昔の人だったら、やっぱり恐ろしいし、厳かだし、畏怖尊敬するよなあっていう、迫力というか存在感があったよ。
仏像の造形とかスンゴイからね、細かくて、どこかおどろおどろしくて、おっかなくて、生々しくて、アートってのは、こういうところから生まれてるんだなあって。
木の床に座りこんで読経してる老人とかもいてね。
でさ、お寺さんて、いたるところに、御守りが売ってたり、賽銭箱があったり、御利益がどうとか書いてあるから、自然と、自分が何を願っているのか、考えるんだよね。
オレは、この人生に、何を願ってるのかなあ、どうなって欲しいのかなあ、どうしたいのかなあって、ふだん、忙しない日常では見えないところ、大きな願望っていうか、曖昧な、でも大切な軸みたいなところを、いつの間にか考えてる。
そんで、驚くほど、心が静かになってる。
今日明日、来週来月じゃなく、人生全体をね、見るともなく、見るような。
で、そんな風に、自分はこの人生に何を願うのか、何を求めているのか、を見てみると、やっぱり、なんともない、月並みな、平穏な、しあわせを求めてたりするんだよね。ああ、そうかと。
お金も欲しいし、いいもの創りたいし、もっとデカいオートバイとかジャガーとかマスタングも欲しいし、いろいろ旅したいし、チヤホヤもされたいけども、でもさ……、けっきょく……、
健康で、好きな人がまわりにいて、メシが食えて、
今で、ええがな。今が、最高やがな。の境地ですよ笑。
あと、寺社仏閣で手を合わせるときには、「〇〇しますように」と祈願するよりも、「いつも〇〇してくれてありがとうございます」って感謝するといいよ、なんて話も聞きかじってたんだけど、
その日のオレはなんとなくそういう風でもなかったから、ただ手を合わせてきた。願うこともなく、ありがたがることもなく、ただそこにいて、風に吹かれてきた。
でもいずれにせよ、祈りや願いってのは、神さまや仏さまを通して、自分に返ってくるよね。
神仏に祈願し、大丈夫、これで護ってもらえる、うまくいく、ご先祖様が、神さまがついてるって思えれば、人はより積極的に前向きに行動するもんね。
祈るとか願うって、結局、自分をパワーアップさせてる。
安心して、ただ、できることをやる。恐れを信じないで。って、アナ雪2でも言ってたわ。
外国人観光客は死ぬほどいたよ。どこ向いてもね。
みんな、一生懸命写真撮ってはったわ。あんなに写真ばっか撮ってたら、ディスプレイ越しの世界ばっかりで、自分の目では見えてないんじゃないの?なんて余計なお世話だけどさ。
写真じゃ見えないところを見に来たんちゃうの?なんてね。
でもホント、終始こればっかだけど、寺社や紅葉を見に来たんでわないわ、オレは。それを見て感じる自分の内面を見に来たんだわ、と再確認したっすこの日は。
だから、今はこうしてブログに旅行記を書いてはいるけども、誰かに何かを伝えるような目的じゃないからね、旅の間はツイッターもインスタグラムも触らなかった。
おかげで、純粋な、他者を意識してない心のままのメモがたくさん残ったよ。
それらはきっとこれから、オレの何かになるだろうね。ならないかもね笑。
でもさ、やっぱ清水寺って、スゴいね、もうそこに在る、その存在が。圧倒された。うへえって声出て、なんか笑ったもんな。
工事中で全貌を眺めることはできなかったけど、でも、1000年以上も前に、今よりも自然が深く、文明も娯楽も知識も情報も未発達だった時代に、この土地、この森の中に、こんな荘厳でバカでかい建造物があって、中にあんなに細かくてヤバいアートな仏像があったら、そりゃ庶民は畏怖したべよ。恐れおののくわい。
今見たってうへえってなるくらいなんだから。
だもんで、清水寺では、ここの何がどうスゴかった、という感想はあんまなくて、まあ境内場内ぜんぶひっくるめて圧倒されたね、っていう感じだよね。
で、次はどこ行くかな〜なんて考えながら、ふと、ふと、てきとうに歩いていたら、茶わん坂って坂を下っててね、その名の通り、道の左右に茶わん屋さんが並んでて。
シブくて高級そうな店は入らなかったけど、チョウドイイ雰囲気の店があったんで、自分とママちゃんにお酒のグラスとか箸置きとか買って、またぷらぷらと。
さてさて、次はどこへ流れ着くのかしら。つづく。
☞ そうか、伏見稲荷に行きたかったのかオレは。〈京へ西へ。その六〉