コラム/エッセイ

遠州の香る宿。湯に毒を流す。

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九月も終わったというのに日中の気温は三十度を超え、夏の余韻がしつこく残っていた。僕は四十三歳で、浜松の温泉にいた。

香りのいい宿だった。和風でモダンなロビーには茶香炉が炊かれ、建物に入った瞬間にじんわりと心がほぐされた気がした。客室はもちろん、廊下にもエレベーターにも大浴場の脱衣所にも、ふだん人間の生々しい匂いが満ちているはずの空間のすべてが、穏やかでひかえめな茶葉の香りに包まれていた。

浜名湖を望む露天風呂に顎ひげまで浸しながら、全身から力が抜けていくのを感じた。日常で溜まった余計なものが湯に溶けていく。つい数時間前までは、自宅で軟禁されているみたいに重々しい空気を吸っていたのに。

露天風呂は正確には露天ではなく屋根がついていたが、視界いっぱいに広がる庭園は無駄なく洗練されていて、木の床と柱と屋根に切り取られたその風景は、まるで巨大な絵画を眺めているようだった。

このところ幾晩か深酒がつづいて、さらに暮らしの面倒ごとのあれこれが重なって情緒が揺れていたのか、なんでもない些細なことで夫婦の間の空気が澱んでいた。つきあいが長くなると、夫婦の諍いに口数は減っていく。無口なヤマアラシみたいに、黙って距離を置いて、お互いがつけた傷が癒えるのを待つだけだ。

檜の内風呂には、茶葉の入った小さな籐の玉が浮いていて、季節の風や檜の香りを邪魔しない程度に、微かに茶が香った。湯面にぷかぷかと浮かぶ姿が可愛らしかった。

金がかかっているな、と思った。はったりでないところに。すべてに抑制がきいている。〈おもてなし〉の心というのは、目に見えないところに宿っているのだな、と思う。奮発していつもよりいい宿を取ってよかった、とも思った。

脱衣所の床もバスマットも、さらりと乾いて足裏に心地よい。浴室の入口に山積みにされた真新しいバスタオルをひとつとって雑に身体を拭う。今治のふかふかのタオルからは洗剤とも茶葉とも違う仄かでやさしい香りがした。

昨晩、家内は何も言わず、僕の好物の豚しゃぶと刺身を用意した。妥協や謝罪を安易に言葉にしない彼女の、精いっぱいの気持ちなのだ。僕は嬉しくなるが、もちろん口にはしない。僕が彼女に「愛してる」などと言わなくなったのは、自分の言葉の薄っぺらさに彼女が気づかせてくれたからだ。長い時間をかけて。イーストウッドの映画に出てくるアメリカ兵じゃないんだから。

僕はいつも耳ざわりのいい言葉を口にするだけで、実質的に彼女のために何かをしてきただろうか、などと健気なことを考える。もちろんそんなことはわからない。どうでもいいことに思いを馳せることができる。それだけで旅行に出てよかったと思う。

建物にも風情にも接客にもこれだけ心配りがされている旅館であっても、事前にネットで調べてみたときには、意外とよくない評判も見うけられた。やれ廊下の隅に埃が溜まっていたとか、スタッフの笑顔がどうの、料理の配膳がこうの。それらのレビューに仄かな不安を抱きつつも実際に訪れてみると、気になるところはひとつもなかった。部屋はどこも清潔で、穏やかな笑顔で、料理も素晴らしかった。

もちろん完璧ではない。完璧であるはずがない。完璧でなくてもいいのだと、そう気づくためにここへきたのではないかと、限りなく完璧に近い宿を眺めて思う。

やがて心が解きはなたれていく。何度も何度も、湯に浸かるたびに、じわじわと音をたてて精神がほぐされていくのがわかる。僕の毛穴から溢れ出る毒で、透明な温泉が汚れてしまうのではないかと思うくらいに。

長く暮らしていると、夫婦の諍いにどちらが正しくてどちらが悪い、なんてことはなくなっていく。お互いがお互いの欠損を理解し、補って生きてきたのだ。補えないとき、感情に揺さぶられるときというのは、〈そういうとき〉なのだ。静かに、終わるのを、待つ、だけだ。

女風呂から、二十代後半くらいのOLらしき女性三人組が出てきた。「私たち場違いじゃない?」とかしましく笑っている。中庭を歩いていた品の良い年配の女性がそれを見て微笑んでいる。

静謐な食事の席に、唐突に子どもの叫び声が響いた。走り回る子どもたちを前に右往左往する若い夫婦。

僕はせっかくの素敵な宿なのに、お客さんが残念だな、と思ったが、同時に知り合いのおじさんの言葉を思い出していた。

「高級を味わうには、下地がいるんだよ。金にものを言わせて、こんだけ高い金払ってるんだからちゃんとしろよって上から高飛車に構えてたら、どんだけ高級なものも味わえない。心の余裕っていうのかな、すべてを寛容に受け容れる下地がないと、本質なんて見えないんだよ」

なるほど。払った対価に取り憑かれていては、おもてなしも高級も味わえないのだ。僕は反省する。やがてスタッフが玩具を用意して、子どもを和ませていく。若い親が安堵する心の音が聞こえた気がする。

湖を眺め、鰻を食らい、地の酒を飲んで、湯に毒を流す。

あんまりいい宿だったので、いつものように家に着いたとき「やっぱりわが家が一番」とは言わなかったけど、温泉の効能か、高級なコスメのせいか、旅から帰った家内の肌がいつもより眩しく輝いているように見えた。肌も心もつるつるすべすべになっただろうか。

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