そう、京都。京都よ、平安京。

ある日ね、ふと、本当にふと、思いついて、あ、京都やわ。行こうって。

きっかけも何もなくて、ただ突然、ふとね。明確な目的もなく。ちょうど紅葉が綺麗らしいしいいじゃんて。

でも思えばそのときからもう、直感はあったの。

これは今までになかったくらい、霊的な体験をする旅になるだろうなって。

なんてね、霊的とかスピリチュアルとかの大きな言葉を使うと大仰に聞こえるけど、そんな大した話じゃなくてさ。

寺社や名所、紅葉を観光するんではなくて、そういうところをただ歩いてたら、今のオレは何を感じるのかしら〜ん?っていう流れでさ。

ここんとこ、そうだな、数年前に親父が死んでからはとくにだけど、いろんなことを〈考えて〉たの。

仕事も辞めて、あんまり他人に会わず関わらず、本ばっかり読んで、家族と猫と海と静かに暮らしながら、ずっと世界のいろんなことを〈考えて〉た。

でもそんな生活を続けているとさ、〈考える〉って、なんか違うな、って気づくわけ。

今までいろんなことを考えてきたけど、いろんなことを考えて答えを出すことが大事だと思ってたけど、そうじゃないかもしれないぞと。

とくに哲学の本とか読んでるとね、哲学者って、考えるんじゃなくて、見てるなと。

世界を、人を、見てる。

決めつけないで、枠にハメないで、ただ、見てる。

まあ最後にはハメるんだけど笑。

いくら考えても答えが出ないときって、そんなの当たり前で、まずそもそも現実が見えてない。

世の事象をまっすぐクリアに見えていないのに、自分が見聞き経験した狭ーい世界で思考してたって、答えなんて出ない。

だって、答えは外にあるんだもんな。

いわゆる頭がいい人って、物事を見る解像度が高いんだよね。

頭脳が優れてるとか以前に、解像度高く物事をじっくり見つめる習慣が根付いている。

知識が多い人が頭がいいと思われがちだけど、解像度が高いから、結果的にそうなってるわけでね。

ビジネスでも、人間関係でも、趣味でも、芸事でも、なんでも、興味が沸いた事象をじっくり〈見てる〉。

だから、やることが、見える。

やることを、やる。

考えるんじゃなくて、クリアな目で見たら、答えはもうそこにある。ボブ・ディランも言ってるじゃないかって。

ブルース・リーも、老子も、カンフーパンダも、マスター・ヨーダも、マトリックスだって、ジミー・クリフだって、禅だって、まあそこらじゅうで形を変えて言われてきてんだろうけど。

考えるんじゃなくて、見る、ね。

感じる、でもいいんだけども。

でも、感じてるだけだとね、京都行くのに、直感だけじゃ辿り着かないわけで、新幹線とか観光地とか調べて、ある程度の土台は作っとくんだけど、あとは、そのときどきの瞬間にまかせる、ゆだねると。

オレはそれを最近は、カッコつけて〈直感と理屈を揺蕩う思考〉って呼んで、自分で見てるんだけどね。アレ、文字にするとダセえな笑。

まあとにかく、そういうこともあって、なんか最近は〈流れる〉ようにしてたのさ。

どっかに書いたっけこの話?まだだったかな?

〈流れる〉ってのは、〈決めない〉ってこと。力をぬいて〈ゆだねる〉ってこと。〈まかせる〉ってこと。

無理に余計なことなんかしないで、ふと思いついたこと、まわりの流れに乗っかって、力まず、身をゆだねていたら、それでうまくいくやんなあ、っていうね。

まあ、オレも、力んで苦しんで闇を彷徨ってた頃にそんなこと言われたら、はあ?って思ったろうけどさ笑。

ふざけんじゃねえ。力ぬいて、決めないで、まかせて、ゆだねてなんかいたら、もっと苦しくなるんだよ。

あいつにもっと攻撃されて、辛いこともっとやらされて、死んでまうわ、って言っただろうね笑。

そういうときってのは、流れを外れて、溝とか穴とかにはまってるからね、流れようにも流れられないわな。

でもね、まあ人生にゃそういうフェーズもあるんだけども、苦悩の井戸に沈んでたあの頃のオレもね、もっと力ぬいて、まわりの人信じて、ゆだねて、まかせて、その上で、自分にできることをやったら、なんかそもそも苦しむ要素なんてなかったんじゃないかなんてね、まあ今となっては思ったりもするよ。

ともあれ、流れるようになったら、自然に人の力を借りるようになり、自然と自我が薄まり、自然と世界がちょびっと見えるようになって、いろいろ心地よくなってきてね。

自然って、そういうことかあと。自ずと、然るべく。

まあ、こんなもん、本当に個人的で抽象的な話で、人に話すようなことでもないんだけども、そういう流れの上に、ふと、オレの脳裡にたちあらわれた京都という地を、訪ねることにしたのさ。つづく。

☞ 京のお上りさん。木屋町の宿。物の怪の夕暮れ。〈京へ西へ。その二〉

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