Bathhouse(EDO-TOKYO Architectural Museum)Bathhouse(EDO-TOKYO Architectural Museum) / kanegen

若い頃からおふろ屋さんが好きだった。
これまでにけっこういろんなところに住んできたけれど、どこにいても必ず行きつけのおふろ屋さんがあった。

おふろ屋さんといっても、今はもういわゆるスーパー銭湯と呼ばれる複合施設がほとんどで、富士山の壁画があるような昔ながらのおふろ屋さんはとんと見かけなくなってしまった。

学芸大学に住んでいた頃は、歩いて三分くらいのところにあるおふろ屋さんに通っていた。
ほとんど大学へ行かず、バイトの仲間たちと毎晩遅くまで酒を飲んで遊んでいた僕は、平日の昼間におふろ屋さんへ行くことが多かった。

お客さんは数えるほどしかいない。だいたいが高齢のおじいちゃんたちだ。
僕は二日酔いの重い頭を風呂の縁にひっかけて、おじいちゃんたちのゆっくりとした動きを、見るともなく眺めていた。

おじいちゃんたちは、ゆっくりだけど、これ以上なく的確な動作で身体を清めている。
その無駄のない動きは、洗練という言葉を連想させた。
考えてみれば、僕より何十年もたくさん生きているおじいちゃんたちは、僕より何万回もたくさん、こうやって身体を洗って、湯船に浸かって、ということを繰り返しているのだから、その所作が堂に入っているように見えるのは当然のことだった。

おふろ屋さんていうのは、最も身近な「非日常」だと思う。

大きな湯船に浸かって、身体を思いきり伸ばして、目を閉じると、刹那ではあるけれど、日常を外から眺めることができる。

若かった僕はきっと、何者でもない自分や、何も見えない将来や、焦がれる恋情や、なんやかんや、いろんなものが絡み合った複雑な悩みの塊を抱えていて、そこから逃れたかったんだと思う。どこにでもよくある話だ。

だからおじいちゃんたちに囲まれているのは心地良かった。

歳の近い若者や親父くらいの年齢のお客さんがいたら、きっと何かにつけて現実の些末なことたちが思い出されて、ちっともリラックスできなかったと思う。

今でもよくおふろ屋さんへ行く。
最近は湯船じゃなくて、岩盤浴で多くの時間を過ごす。

僕が通っているおふろ屋さんの岩盤浴は、とても暗くて(上映中の映画館くらい)、プラネタリウムで流れているような神秘的な音楽が流れている。
そこに入ると、一瞬で「非日常」にワープすることができる。

僕はもうあの頃のように若くはないし、愛する家族がいるし、自分ができることとできないことも少しずつわかってきているから、もちろん現実から逃げたりはしない。
ただ、現実をそっと横にのけておいて、自分が本当に大切に思っていることを考えることはよくある。
むしろそれを確認するために、あの蒸し暑くて暗い部屋に、毎週のように入っているのかもしれない。

高校生の頃、一週間くらいジャマイカに行ったことがある。
僕は一日中白い砂浜に横になって、それまで感じたことのない強烈な陽光に背中を灼かれながら、ウォークマンで音楽を聴いていた。
限りなく透明に近いブルーのカリブ海を眺めながら、僕はずっと、日本での自分の日常のことを考えていた。

奇跡みたいに美しい海を目の前にして、ちっぽけな現実のことばっかり考えていたのだ。

現実から逃げたりはしないし、将来はすこしずつ自分の理想に近づいているという実感があるけれど、それでもおふろ屋さんへいくと、いつも心もいっしょにさっぱりして帰ってくる。

「恥と汗はかけばかくほどいいみたいですよ」

と言ったのは中島らもだっただろうか。それなりに恥をかきながら、それなりに大人になって、その通りだなと思う。

そういえば最近、どうして僕は昔からおふろ屋さんが好きなのかな、と考えたんだけど、答えはすごくあっけなかった。僕は中学高校の六年間ずっと全寮制の学校にいたので、毎日大浴場に入っていたのだ。ただそれだけのことだった。

あとさ、最近のおふろ屋さんは十把一絡げに「入れ墨やタトゥーの方入場お断り」ってしていて、その気持ちもわからなくはないけれど、風情が入り込む余地がなくて、寂しい気がしませんか。
僕の友だちの女の子も岩盤浴にいけないって嘆いていたし、昔はどこの銭湯にも、背中に彫り物を背負ったおじさんたちが必ずいて、子どもたちはそれを見て世界を見知りしていたんだぜ。