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高校生以来観ていなかった黒澤明の名作『生きる』を観てみました。
1952年制作というとてつもなく古い白黒映画ですが、世界のクロサワが描く「生きる」という普遍的なテーマは、いつの時代にも僕らの心に強い楔を打ちつけてきます。
世界はそう簡単には変わらないかもしれないけれど、いつだって自分を変えることはできる。
あらすじ
某市役所の市民課長渡邊勘治は三十年無欠勤という恐ろしく勤勉な経歴を持った男だったが、その日初めて欠勤をした。彼は病院へ行って診察の結果、胃ガンを宣告されたのである。夜、家へ帰って二階の息子たち夫婦の居間に電気もつけずに座っていた時、外出から帰ってきた二人の声が聞こえた。父親の退職金や恩給を抵当に金を借りて家を建て、父とは別居をしようという相談である。勘治は息子の光男が五歳の時に妻を失ったが、後妻も迎えずに光男を育ててきたことを思うと、絶望した心がさらに暗くなり、そのまま街へさまよい出てしまった。
引用元:あらすじ 解説 生きる(’52) – goo 映画.
何の目的も持たずに生きていた。
主人公の渡辺さんは、真面目だけが取り柄の事なかれ主義を絵に描いたような男。ただひたすら問題が起こらないように機械的に仕事をこなしていた。人生に明確な目的はなく、毎日を消化していくだけ。
役所でハンコを押すだけの退屈な仕事を続ける渡辺さんの姿は本当につまらなそうだけれど、僕らは彼のことを笑えるだろうか。つい何年か前までの僕だって、同じようなもんだったんじゃないだろうか。
僕にはずっと将来の夢や目的があったけれど、それらのために毎日の貴重な時間を使っていたとは言えない。未来に夢を見て人生の希望を語ってはいても、それを成し遂げるための行動は起こせていなかった。ただひたすら、与えられた労働と家での役割を盲目的にこなしていただけだ。
日常が永遠に続くものだと、勘違いしていたからだ。
ただ働いて、食べて、そうやって生きていく。
自分の命がもう長くはないことを知った渡辺さんは、貯金をおろして夜の街へ繰りだしたり、天真爛漫な部下の女の子と遊びまわるのだけれど、心は一向に晴れてこない。
「私はただ、働いて、食べて、そうやって生きるだけよ」
役所仕事のあまりの退屈さに耐えられなくなって転職した部下の女の子は、何のために生きているのか?という渡辺さんの苦悩にこう答えた。彼女はただ働くということに、全力を傾けていた。
お日様のようにまぶしくよく笑う彼女の言葉を聞いて、渡辺さんはついに「生きる」ことの本当の意味を知っていく。
働く、というのは、誰かの役に立つということ。
世の中にはいろんな仕事があるけれど、どんな仕事も誰かのためになっている。その他者への貢献度の大きさが、賃金に比例している。
役所の課長もトラック運転手もプログラマーもサッカー選手も社長も古本屋の店員もみんな、仕事の先には他者がいて、その誰かの役に立っている。どんな職種にせよ、そのことを意識できれば、自分の役割や使命を心でとらえることができると思う。
僕は、人の役に立っているんだ、と。
「やろうと思えば、なんだってできる」
一念発起した渡辺さんは、上司や同僚、はたまた街の暴力団などの障害を乗り越えて、仕事を成し遂げるために走りまわり、死んでいく。
人は、やろうと思えば何だってできるんだ、と呟きながら。
人間の儚さと、生きることの素晴らしさをじっくりと描いた傑作です。きちんと時間を用意して、じっくりゆっくり、静かにご覧になることをオススメします。
きっと、何かをやらずにはいられなくなると思いますよ。