「だけど明日死ぬかもしれないから、今日も死にものぐるいでやってみることにする」

Sunset Aurora

二年前の冬に家内が倒れたとき、はじめて、もう駄目かもしれないと思った。昨年の大震災で目の前の巨大なビルがこんにゃくのようにぐにゃぐにゃ揺れるのを見たときは、このまま死んでしまうかもしれない、と本気で思った。

それはどちらも時間で言えばわずかな間ではあったけれど、僕は生まれてはじめて「リアルな死」を実感した。

今年の春に会社の社長が亡くなった。僕は産まれてはじめて、生きていない人間の肌に触れた。二日前には快活に笑っていた人がもう動かなくなって、奥さんと娘さんが隣でとめどなく涙を流しつづけていた。映画や小説に出てくるその一般的な「別れのシーン」は、とても現実だとは思えなかった。

しばらくしてから社長が使っていたベッドの処分を手伝いにいった。部屋は以前よりもいくぶんか広く感じられた。昨日まで三人で暮らしていた家に、今日からは二人で暮らす。人ひとりぶんの空間がぽっかりと空いている。死というのはそういうことらしい。

僕は家内と三人の子どものうちの誰かが家にいないところを想像して、ぞっとした。腹の底から今まで味わったことのない種類の恐怖が這い上ってきた。想像するだけでこんなにも苦しくなるのなら、子どもなんてつくらなければよかった、とすら思った。

今年もまた梅雨とともにAppleの世界開発者カンファレンスの季節がやってきて、昨年亡くなったスティーブ・ジョブズの言葉を思い出した。

あまりにも有名なスタンフォード大学卒業式の伝説のスピーチの一部だ。

 17歳のとき次のような一節を読んだ。「毎日を人生最後の日であるかのように生きていれば、いつか必ずひとかどの人物になれる」。私は感銘を受け、それ以来33年間毎朝鏡を見て自問している。「今日が人生最後の日だとしたら、私は今日する予定のことをしたいと思うだろうか」。そしてその答えがいいえであることが長く続きすぎるたびに、私は何かを変える必要を悟った。

引用元: スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学での卒業式スピーチ – himazu archive 2.0.

感銘を受けはしたが、僕は毎日鏡に向かって自問したりしなかった。今日が人生最後の日だとしたら、仕事なんてしてないで家族や友人たちと楽しい時間を過ごすだろう、などと浅はかに切り捨てていたのだ。

しかし先日、ある言葉に出会って、僕は唐突に理解した。

「人間は確実に死ぬ。死んだ後に、あなたはどんな風に人々に記憶されたいか?あなたの生きた証というものについて、あなたはいま、どのように語れるだろうか」

一度きりの自分の人生を、僕たちは精一杯生きられているだろうか。

もし今日事故にあって自分が死んだとして、家族や恋人、友人たちは、あなたが望むような生き様を生きたと、語ってくれるだろうか。

それとも、本当は私の人生はこんなはずじゃなかった、という悔いが残るだろうか。

引用元: 「媚びない人生」を生き抜け! 心が震える10の言葉 | No Second Life.

なるほど、そういうことだったのか。僕は余命を宣告されるのではなく、明日死ぬ可能性を強く思いつつ、十年後の未来を夢見ながら、今日という一日をどう過ごすのか、という問いなのか。

そう考えたら、ふっと心が軽くなるのを感じた。

家族や愛すべき人たちとの輝かしい夢の未来に対する期待と、明日死んでしまうかもしれないという危機感が産んだのは、一種の爽快感だった。いつもの時間がとても大切に感じられ、家族や友人、同僚たちがひどく愛おしくなった。

もし明日死んでしまうなら、やれることをやれるだけやっておこう。
出会うすべての人に笑顔を見せよう。
子どもを叱るのをやめよう。
じっくり話して聞かせよう。
もう少しふんばって仕事を終わらせよう。
明日やることで今日できることをやろう。
下を向いている人の肩を叩こう。
家族の話を聞こう。
家族を抱きしめよう。
食事はゆっくり噛みしめて食べよう。
親父に電話をかけよう。
借りっぱなしの本を返して、返信していないメールを書こう。
ずっと笑っていよう。明日死ぬかもしれないのに、何を悲しむことがあるだろうか。
苦手な人に話しかけよう。もう二度と会えないかもしれない人に対して、腹を立ててどうするというのか。
疎遠になっている人に電話をかけて謝ろう。
毎日見ている茅ヶ崎の海をもう一度見にいこう。
家内とビールを飲もう。
日常のどうでもいい不安をすべて忘れて、ゆっくりと眠ろう。

そしてもし、運良く明日も目を覚ますことができたら、同じように今日を生きよう。

「死ぬこと」について考えるとき、僕はよく映画「タイタニック」を思いだす。一組の老夫婦が沈みゆく船の寝台に横になって、二人で静かに死を受け入れるシーンだ。

若い頃は、いくつになっても「生きる」ということを諦めてはいけないよ、なんて思っていた僕だけれど、最近はあの老夫婦の気持ちが少しはわかるようになってきた。

僕はジャックと同じでまだ何も成し遂げてはいないけれど、それでも毎日を悔いなく精いっぱい生きて、愛する家族と共にいれば、案外幸せな気持ちで死を受け入れられるかもしれないな、と思った。

死ぬのは嫌だ。死ぬほど怖い。

だけど明日死ぬかもしれないから、今日も死にものぐるいでやってみることにする。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です