だけど、この映画のどこがどんな風に良くて、笑えたとか感動したとか、このシーンがどうたら、とか書いてしまうと、きっとこの映画の良さは半減してしまう。これは映画や小説を他人に薦めるときの永遠の課題だ。予備知識がない状態で見るからこそ、心に食いこむ表現がある。
というわけで、映画の詳細については書かないのでとにかく見てください。
と言いたいところなんだけど、それではきっと誰も見ないだろうと思うので、やっぱり僕が感じたことを素直に書いちゃいます。これから見るつもりの人は読まない方がいいと思うし、今後一生見るつもりがない人だけ読んでみてください。嗚呼パラドックス。以下いわゆるネタバレ。
伊香藩水位微調役だった野見勘十郎はある出来事がきっかけで脱藩し、賞金首になりながらも娘のたえを連れてあてのない逃避行を続けていた。勘十郎は藩にいた際にある出来事がきっかけで刀を捨て、腰に鞘のみを備えていた。
勘十郎親子は多幸藩の追手によってついに捕われてしまう。多幸藩藩主はたいそう変わり者で、勘十郎に対して奇抜な試練を与えた。それは「三十日の業」というもので、母を亡くした悲しみで笑顔を忘れてしまった若君に対し勘十郎が1日1芸を披露し、その間に笑わせることができたら無罪放免、できなければ切腹というものだった。
引用元: さや侍 – Wikipedia.
ド素人のおっさんが演じる主人公「さや侍」が若君を笑わせようと四苦八苦するという設定からして、笑いを取りにいこうとする姿勢があからさまでやや寒いのだが、そこで披露される一芸もやはり微妙というか、新鮮みに欠けるし、正直すべっている。
ROLLYやりょうなどアクの強いキャラクターや、板尾創路の絶妙の間と存在感で、笑えるポイントはそれなりにあるんだけど、それでも心に浮かぶのは不安感ばかり。松ちゃんファンだからこそ、このままこのすべった感じの寒い流れで終わってしまうのではないか、という不安がつきまとう序盤から中盤。
結論から言うと、最後に大どんでん返しが待っている。
切腹をする前に、何か面白いことを言いさえすれば命が救われる状況で、しかも藩主も民衆もさや侍の味方になっていて、もはや何か口にするだけでいい状況であったにもかかわらず、彼は腹を切って命を断ってしまうのだ。
「え、なんで?」
刀も持たず、頼りにもならず、何の長所もないダメ男は、なぜ最後に自ら死を選んだのか。最愛の娘を残してまで。
その後のシーンで、彼が切腹をした理由が明かされるのだが、さすがにそこは語らないでおこう。なるほどこの映画は、このクライマックスにすべてが収束されるために、くだらない笑いや間延びした展開が続いていたのだ。
とにもかくにも、不覚にも僕は涙をこらえきれなかった。
もともと映画好きで、笑いで培った独自の世界観と独創的な演出で成功した「世界の北野」と違って、松ちゃんはあまり映画を観ないという。
映画という枠組みの中で自分のお笑いを表現する、というスタンスの松ちゃんがつくる映画だから、正直に言ってこれまで成功してきたとは言えない。「映画を理解していない者が作る映画だから面白いんじゃないか」というのは単なる戯れ言で、テレビとは違う映画ならではの表現を活かしきれていなかった。
でも今回は、大どんでん返しというベタな手法ではあったにせよ、それなりに映画としての体裁が保たれた感がある。エンドロールが流れるときに、涙で心を滲ませながら、監督に賞賛を贈りたいと思えるのが、やはり最高の映画だということを思い出させてくれる。
大どんでん返しと言えば『猿の惑星』や『エンゼル・ハート』『シックス・センス』などが思い浮かぶが、いずれの作品も、事前に「最後にすげえ大どんでん返しが待ってるんだぜ」と知った上で見てしまえば、その魅力は半減どころかほとんど消え失せてしまう。
僕だって、どうせ今回もちょっと寒い感じでスベってるんじゃないの、という生半可な心がまえで見たからこそ衝撃を受けたのであって、最後に何かあると知っていたら、これほどまで深く心に刻まれなかったかもしれない。
これから『さや侍』を見る人にとっては、罪深く致命的なことを書いてしまったことが悔やまれるが、拙者も腹を切る覚悟でござる。この記事を忘れた頃にでも見てください。