糸井重里さんが「夢には翼しかついてない」と言っておられて、なるほどと納得したんです。

夢に手足を。

夢には翼しかついていない。
足をつけて、
歩き出させよう。
手をつけて、
なにかをこしらえたり、
つなぎあったりさせよう。
やがて、目が見開き、
耳が音を聞きはじめ、
口は話したり歌ったりしはじめる。

夢においしいものを食べさせよう。
いろんなものを見せたり、
たくさんのことばや歌を聞かせよう。
そして、森を駆けたり、
海を泳いだりもさせてやろう。

夢は、ぼくたちの姿に似てくるだろう。
そして、ぼくらは、夢に似ていく。
夢に手足を。
そして、手足には夢を。

(手足を持てぬままの夢は消えていくし、夢を持てぬままの手足は、切ないです。)

__(2016年1月28日「今日のダーリン」より)

夢がいつまでも叶わない、あるいは夢に向かっている途中で苦しくなってしまうのは、夢に手足がついていないからかもしれません。

ふわふわ宙に浮かんでいるまだ現実味のない夢をつかまえて、足をつけてやって、今日できることを淡々とやって、いろんなものを見聞きしながら夢に向かっている間に、やがて夢と自分が近づいていく。幻のように儚く、自分とはかけ離れた存在に見えていた夢が、いつの間にか手の届きそうな身近なものに見える。自分もまたいつの間にか、その夢にふさわしい人間になっている。それが、夢を叶えると言うことなのかもしれません。

というか、この言葉を読んでいると、夢は叶えるものじゃないんじゃないか、という気すらしてきます。夢に手足をつけて毎日着実に歩みつづけていたら、手足に夢を持って毎日暮らしていたら、夢が自分になっていた。自分が夢になっていた。そんなふうに、夢が実現するんじゃないかって思ったりします。逆に言えば、手足を持たない夢は消えていくのです。

夢に向かってコツコツ歩みを進めることが大事なのは言うまでもないけど、もしかしたらもっと大事なのは、毎日の歩みが夢に向かっているんだということを「確認」することかもしれません。手足に夢をつけることです。

シベリアに流刑されたドストエフスキーは、半日かけて穴を掘り、半日かけてその穴を埋めるという強制労働をひたすらやらされたと言います。そんな何の意味もない単純作業を延々とやらされると、やがて人は精神に異常をきたし、発狂して死んでしまうんですね。それと同じで、夢を持てぬままの手足は、とっても切ないです。

たまに苦しいことがあっても、漠然とした不安に包まれても、それでもふだん通り笑って日常のいとなみをつづけられる人は、手足に夢を持たせることができているんじゃないでしょうか。

「夢のためにつらいこともガマンする!」なんて力んでると、うまく歩けないですよね。「海賊王にオレはなる!」なんていつも大声でうるさい麦わらの少年だって、ちゃんと夢に手足をつけて、仲間を集めて、信じたことを淡々とやって、けっこう地道に歩んでいるんですから。

翼のついた眩しい夢に気づくとやたらとテンションが上がるものですが、宙に浮かんだそれはまだまさに幻のような夢。そこに手足がつくと、今度は落ちついて、淡々と歩き出せるんじゃないかと思ってます。焦らず、シンプルに。ウォーク・ドント・ラン。

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