過日、四十三歳の誕生日に書店で村上春樹さんの名前を見かけてから、ずいぶんひさしぶりに春樹さんの短編やエッセイを読んでいる。
っていうか、書いてから気づいたけど、僕はもう四十三歳になっちまったのか。れっきとしたおじさんじゃないか。春樹さんを読みはじめた頃は、まだ女性も知らないような年齢だったから、気持ちはあの頃と地続きで若いまんまなんだけどな。
スパゲティを茹でていたら知らない女から電話がかかってきて、それから猫を探しに出かける不思議なお話や、神宮球場のかつて芝生だった外野席で飲むビールの話なんかを読んでいるうちに、僕の心がすこしずつ、静かに落ちついていくのがわかった。
春樹さんの書くものを読むと、僕の思考はいつもスローダウンする。
すぐに慌てて、つまづいて、大騒ぎしがちな僕も、春樹さんが世の中の物事のひとつひとつについて、ゆっくりじっくり見て、考えて、行動して、失敗から学んで、そこから導き出された〈自分なり〉の答えを、決して押しつけがましくないように、そんなに大した話はしてないよ、というようなさっぱりとした姿勢で紡いでいる言葉を読むと、僕もようやく慌てるのをやめて、深く大きな息をつけるのだ。
そして、いつものことだけど、書く文章が、春樹さんに似てくる。
「文体が村上春樹に似てしまう」というのは、一時期の物書き志望たちの間では社会現象とでも言っていいくらいよく見られた恥ずかしいあるあるで、小説新人賞の応募作には、似非村上春樹的文体が笑っちゃうくらいたくさん散らばっているそうである。思わず選考委員も「やれやれ」なんて呟いちゃうんだとか。それはウソだけど。
僕も以前から、村上春樹を読むたびにしばらくのあいだ文体が寄ってしまうことに恥ずかしさをおぼえていたのだけれど、最近それは自然なことなのだからしょうがないと受け容れるようになった。
僕の書く文章が春樹さんみたいになるのは、思考がスローダウンして、春樹さんみたいに世界を落ちついて眺めるようになるからであって、長いあいだ基本的に慌てて生きてきた人間にとっては、好転反応みたいなもんなのである。
いつもひとつの方向からしか見ていなかった物事を、いろんな角度からゆっくりじっくり眺め、ふだんぱっと判断を下して瞬間的に決めつけていた解釈を、時間をかけて疑ったり、何度も考えてみたり、世間やニュースやマジョリティが声高に(ときに偉そうに)発信する言葉を斜めから訝ってみたり、そうやって慌てず焦らず物事を見、考えるようになると、自ずと文章もゆっくりじっくり丁寧に書かれるようになるらしい。
村上春樹の文体を「まどろっこしい」と揶揄する人がいるけど、それは生きるスピードが違うというところもあると思う。ただ単に生活における判断のひとつひとつをスピーディにこなして生きている人か、あるいは僕のように慌てて焦って落ちつきのないタイプの人なのか、そういう人にとっては、まどろっこしくて、ちょっとめんどくさくも感じられるだろう。
親父が死んでからしばらく〈混乱〉して、慌てふためいていた頃の僕には、春樹さんの文章は一行たりとも入ってこなかった。読もうとしても、言葉が意味を生成せず、読みすすめられないのだ。
したがって、春樹さんの書くものを読めば落ちつくことができるのと同時に、落ちついていないと春樹さんの書くものをじっくり味わうことはできないとも言える。まあ、それは春樹さんに限らないか。
ともあれ、僕は村上春樹の文章に再会することでその都度落ちつきを取り戻し、似非春樹的なちょっと痛い文章を書いて、人生をバランスしているみたいだ。
ちょっと余談だけど、そんな、僕にとって〈落ちつき〉と〈個人主義〉の象徴みたいな春樹さんの対極に、福田雄一さんという映画監督が、僕の中にいる。
福田監督は、『勇者ヨシヒコ』や『銀魂』シリーズで有名な、どちらかというと〈しょうもない〉コメディを得意とする人で、じつは彼の作品をきちんと観たことはないんだけど、テレビの対談番組で見かけてから、その裏表のなさそうな愛らしいキャラクターが好きになってしまった人である。
僕が福田監督について知っていることというのはおそらく彼のパーソナリティ全体の1%にも満たないと思うんだけど、彼は僕の中では
「しょうもない自分を隠そうとしないで、ありのままの自分をさらけ出しながら、好きなことを好きなように楽しんでいる、力の抜けた素敵な人」
という勝手なキャラクターになってしまっている。もちろんここで言う〈しょうもない〉というのはこれ以上ない褒め言葉ですよ監督。
落ちつきとクールさと美学とすこしの頑迷さを兼ね備えた春樹さんはとてもカッコいいのだけれど、僕にはちょっとカッコよすぎるというか、春樹さんの生きる姿勢を大いに参考にする一方で、福田雄一さんの〈しょうもない〉愛らしさを同時に心に浮かべておきたいのである。
っていうか、本当に勝手につけたイメージなんですけどね。あのちょっとだらしない体つきなんかも、愛らしいでしょ。いや、監督ほんとごめんなさい。