人生という旅路を歩いていれば、ときに迷子になることもある。

仲間とはぐれて、道がわからなくなって、腹が減って、ザックのなかの缶詰を開けようとするのだが、缶切りを持っていないことに気がついて、途方に暮れる。

そんなとき、人生を開ける缶切り、それが〈文学〉であると、山田詠美さんはいう。

嗚呼……、ボクは、膝を打った。

親父が死んでから、いろんなことが重なって、いっそのこと後を追ってしまいたいような気持ちで、人生の迷子になっていたとき、いくつもの〈文学〉が、窒息しそうなボクの日常を切り開いてくれていたのだと、後になって気がついた。

平野啓一郎の『マチネの終わりに』、西川美和の『永い言い訳 』、藤沢周の『オレンジ・アンド・タール』、中村文則の『私の消滅』……そしてもっともっと、ボクはたくさんの虚構に逃げて、元いた場所に帰ってきた。

無作為に選んだ小説の登場人物たちは、もちろん誰もボクと同じ人生を歩んではいなかったけれど、ボクは決して独りではないのだと、そのとき知った。

世界とはどのようなものであるのか、人は世界をどのように捉えているのか、許されないと信じていたボクの罪が、罪なんかじゃなくて、それこそ自分自身の在るべき姿であったということ、そして、今見ている世界が、そのままでどれだけ美しいものだったのかを、〈文学〉は、思い出させてくれた。

迷子になって、日が暮れて、慌てふためいてしまっては、誰かの物語をじっくり読んでいる余裕なんて、ないかもしれない。

テレビやスマホに流れる映像や、わかりやすさを第一に書かれたネットの文章に助けを求めてしまうかもしれない。

けれど、もしかしたら、苦しみがいつまでもなくならないのは、そうやって慌てふためいているからかもしれない。

そうなる前に、あるいはそうなってしまったときこそ、心静かに落ちつけて、〈文学〉に触れてみる。

だんだんと、静かに、なる。

だんだんと、独りに、なる。

静かになって、独りになって、ようやく、世界はやさしかったのだと、知る。

〈文学〉とは、たしかに、人生を開ける缶切りかもしれない。それは、旅に出なくても自分を見つめられる鏡でもあるから。