かつての僕の人生は親父とおふくろ__なんて呼んだことは一度もないが__の価値観と刷り込みに支配されていた。いつも心の底には強烈な自己否定と欠乏感が澱のようにこびりついていて、毎日自分を責めて生きていた。
それからしばらくして幸いなことに僕はそんな心の呪縛から逃れ、人生はそもそも豊かであるという実感を得て、スタート地点に立つことができた。「僕は好きなことをやっていいんだ」というスタート地点に。
数年前のある日、RyoAnnaの書くブログの内容が唐突に変わった。iPhoneやガジェットなどのデジタル系の記事が次第に姿を消し、やや難解な書籍の書評やエッセイが目立つようになった。
記事の更新数も減ったし、内容も大衆向けではなくなったので、第一線から退いたのだと感じた読者も少なくないだろう。
僕はそのときRyoAnnaがスタート地点に立ったのだと思った。きっとこの人は自分が好きなことだけを書くことにしたのだろう。世間の需要に寄っていくのではなく、自分の好きなことが世界に共鳴していく道を選んだのだと、寂しさと期待と憧憬が入り混じった感情で見つめていた。
だからRyoAnnaが小説を出したというのを知ったときには、特別な喜びがあった。
敬愛する人が自分の好きなことだけを選んだ結果が小説というかたちで昇華した瞬間を眺めると、静かな喜びが湧きあがると同時に、大きな勇気をもらうのだった。
やっぱり、僕は僕のままでいいのだ。
RyoAnnaの小説を読みながら、僕はあらためてその思いを強く噛みしめて、ちょっとだけ目頭が熱くなった。いつだって、今日がスタート地点なのだ。