この前、オザケンがミュージック・ステーションに出るってんで、見てみたんだけど、なんか、すんごくヘタでさ、歌が。

ゴメンナサイね、好きなのよ、でも本当に、あっそう!って感じで、ヘタでさ、うわっ、ヘタだ!って思ったんだけど。

でもね、同時に、ちょっと感動して、鳥肌たってたの。

うまく言えないんだけど、その文芸的で視野の広い歌詞はもとより、リズムとか、メロディーラインとか、唄いながら一人で手を叩いてる姿とかにね、

ああ、スゴい……別格だわ……。

ってね、素直に思ったんす。

もちろんオレが、オザケン全盛期を通過したアラフォーだってのも大いにあるんだろうけど、あの超越した感じというか、時代に媚びない姿勢は健在でさ、見ているところ、格が違うんだわ。

歌詞も、オレらが暮らすこの世界の具体的でリアルな日常と、スピリチュアルで巨視的な感覚が融合してるような感じでね。

なんかもう、うまく唄おうなんて思ってないんじゃないかって、そんな気すらしたよ。

ネット見てたら、やっぱり若い世代には受け容れられてないみたいで、中には劣化や衰退がヒドい、みたいな論調もあったけど、ああ、わかんねえ奴にはわかんねえんだなあっていうね。

わるく言ってるわけじゃないよ。

でも、今の若い世代がオザケンの良さを理解できないってのは、健全なことだよね。健全って言うか、自然なことでさ。

どっちがいいとかじゃないじゃん。年齢とか時代とかものだし、おじさんだもの、やっぱり。

いろんな経験して人としてデカく深くなってる四十代のオレと、まだまだ若さの万能感に身を寄せて生きてる子どもが、同じものに共感してたまるか、って気持ちもある。

彼らは彼らで、自分の世代の輝きを見たり創ったりするんだから。

オザケンは、自分らしくていいなって、そんだけのことだよ。

ああいう生まれで、ああいう育ちで、ああいう性格の人が、自然に、宇宙のフローに身をまかせたら、ああいう楽曲ができて、ああいうパフォーマンスになるっていうね。

逆に、あれで宇多田ヒカル並に歌唱力も抜群だったら、なんかちがくない?そんなことないか笑。

そうだ、オレが言いたかったのはね、

ああ、歌なんてうまくなくていいんだってこと。

歌い手なんだから、歌唱力は最低条件だろって思っちゃうけど、いやいや、そんだけじゃない深い世界があるなあと。

考えてみたら、オレが好きなミュージシャンとか、小説家とか、スポーツ選手でもタレントでも、どっか、なにか、〈欠けてる〉もんね。

そういう〈欠け〉こそが大事だとか、そういうことを言うつもりもないけどさ。

自分の〈欠け〉を気にして、やりたいことができないのは不幸じゃないか。

みんな、はじめは無謀な、下手くそな、ダッサいところからスタートしてんじゃないの?

オレ、歌下手だからやめるわ、って思うのか、下手だけど好きだし、作曲は得意だからやるわ、って思うのか。

そもそも、歌がうまいってどういうこと?歌がうまくなくちゃいけないの?っていう次元にオザケンはいる気がするわ。

こう、ものすごい、嫉妬しちゃうくらいに才能とか素養があるのに、なぜか自分ではそういう表現なりを創出できない人ってたまにいるけど、そういう人は、その最初の〈欠け〉を認められないんじゃないかな。

オレもそういうとこあったんだ。

〈完璧な美〉を理解できる、わかっちゃう、見えちゃう人って、そうじゃない、不完全なものを認められないんじゃないかな。ましてや自分が出すものとしては。

オレの好きな小説家が言ってたんだけど、

「まず、自分の才能に絶望するところからスタートする」

っていうね。

ああ、オレにはこんなものしか書けないのか、こんな下手くそなのか……。

……でも、やってみよう。やってみたい。

というね。

それは、苦しいけど修練に努めよう、というようなことではなくて、誰だってココからスタートしてるんだ、っていう、仲間意識じゃないけど、ワンネスな、勇気と希望みたいなね。

そんなことを感じたよ。

あと、オザケンの全盛期、彼がアルバム『LIFE』で渋谷から多幸感を撒き散らしてた頃には、オレ、ティーンエイジャーで、世界を呪ってて、デストローイ!ってパンクロックしてたから、リアルタイムではあんまり聴いてなかったんだけど。

今ね、お互いにおっさんになって、今オザケンが書く詩が、すっと沁みいるように、入ってくるよ。

宇宙の流れというか、タオみたいな視座にね、いるのかなって。そっからまた、オレたちの目の前の、リアルな日常を、めいっぱい肯定してんのかなって。

わかんないけど、なんか、同じフローにいるのかな、なんて、勝手に、そんなこと思ったよ。

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▲ 写真は本文とは一切関係ございにゃせん。