カートのことを知らない人や、作品の概要を知りたい人は「シネマズ by 松竹」に書いた記事を読んでくだされ。
今日書くのは、僕がこの作品を通じて感じた「リアル」なこと。
僕を愛してよ、もっと愛してよ!
「あ、僕と同じだ……」
映画を見ていて真っ先に感じたのがこれ。
僕の青春をぐつぐつと沸騰させてくれた憧れのスーパースター/カート・コバーンは、自分とは似ても似つかない類いの人間だと思ってた。
けれど幼少期から思春期にいたるまでの彼の生い立ちを見ていたら、根っこにあるものはかつての僕と同じだった。
愛に、飢えている。
なんか自分のことをこんな風に書くとバカみたいだけれど、でもたしかに、僕もカートも子どもの頃、ちょっとばかし親やまわりの愛情が足りなくて、いっつも愛情を欲してばかりいた。本人はそれに気づいていなかったんだけどね。
過日、家内に「初めて会ったときの僕ってどんな印象だった?」って聞いたんです。
そしたら
「すごく輝いていてみんなの人気者だったけど、いつも、もっともっと愛してくれって言ってるみたいだった」
だって。超ビックリ!
家内に初めて会った二十代の前半て、世の中の何をも知らないかわりに、根拠のない自信に支えられて、自分でもいちばん活発で、輝いていた時期だと思ってた。
でも彼女が言うには、それよりも「人を楽しませないと自分は愛されない」という、痛々しさのほうが裏に見えたのだと言う。
カート・コバーンが他のミュージシャンと違う、最大の魅力は、音楽や表情の裏に垣間見える「痛々しさ」だろう。
僕を含めた多くの「愛情が足りなかった子どもたち」は、大人になっても、人に嫌われることをひどく怖がって、他人に迷惑をかけないようにビクビクしながら生きていく。
けれどカートは、そうやって生きていくには繊細すぎた。
僕らが歯を食いしばって我慢して、横にのけておける痛みや寂しさを、彼はどうすることもできなかった。
だから人を傷つけ、ドラッグに逃げ、やっと見つけた音楽という手段で爆発させたのだ。
カートは27歳のとき、自らの手で短い生涯にピリオドを打った。文字通り、終わらせたのだ。
彼の人生は、傍から見ると、痛々しくもまぶしい、閃光のような輝きに充ちている。
けれど彼は、最愛の妻・コートニーと、その間に生まれた愛娘・フランシスとの、やっとの思いでつかんだ「愛に溢れた生活」を手に入れても、それでもこの世界に耐えられなかった。
僕も今年で四十歳になる。
あの頃誰よりも憧れた、まぶしすぎたロックスターは、もうずっと年下になってしまった。
今の僕に、カートは、寂しい目をして震えている、やせっぽちの青年にしか見えない。そして彼の後ろには、泣いてばかりいた子どもの頃の僕の姿も見える。
二人を、抱きしめてあげたい。
カートにも、幼い頃の僕にも、言ってあげたい。
「もういいんだよ、辛かったよね。好きなことしていいんだよ」って。
「痛いよ痛いよって、泣かなくていいんだよ」って。
カートも僕のように、もう少し平凡な道を歩んでいたら、あともうちょっと生き長らえることができたなら、神さまからギフトみたいな、幸せな残りの人生をもらえたんじゃないだろうかって、ふと思うことがある。
あの頃は僕も若くて混乱するだけだったけど、20年もの月日が流れた今、あらためて彼の安らかな眠りを心から祈りたい。ありがとう。
『COBAIN モンタージュ・オブ・ヘック』は、2015年6月27日(土)から、全国の映画館で「1週間限定」上映です。