僕は三人の子を持つ父親だ。長男は中学三年生なので、もう十五年近く父親をやっていることになる。
けれど僕がその間ずっと、本当にきちんと父親だったかと問われれば、僕は曖昧にうつむいてしまうしかない。
女は身ごもった瞬間に母になると言うが、男が父になるのには時間がかかる。時間だけでも、ないのだが。
カンヌで絶賛され、ハリウッドでリメイクも決まった是枝裕和監督の『そして父になる』は、子を持つすべての男女が、かつて子どもだったすべての男女が見るべき、普遍的な名作だ。
『そして父になる』基本情報
公式サイト:映画「そして父になる」公式サイト
監督:是枝裕和
キャスト:福山雅治、尾野真千子、リリー・フランキー、真木よう子
大事なのは血か、時間か、それとも……。
ある日突然、六年間育てた息子が、病院で取り違えられた別の家の子だったことが判明する。
血の繋がった本当の息子と交換するのか、それとも他人の血を引く子を育てつづけるのか、という究極の選択。
僕ら夫婦も映画を観ながら考えてみたけど、お互いにはっきりとした答えは出せない。血なのか、時間なのか、現実にそういう立場に立ってみないと、いや立ってみても、正しい答えは導き出せないような気がする。
ならばこの作品で、是枝監督はどういう答えを出すのか。そればかりを考えていた。
そしてその血と時間の軸の他に、この映画にはもうひとつの軸があった。
遊んでくれない金持ち父さんと、子ども大好き貧乏父さん
福山雅治演じるパパは、ワーカホリックなエリートサラリーマン。高層マンションに住んで、裕福な生活を営んでいる。いい父親であろうとする姿勢は見えるが、家族との時間より仕事を優先している。
リリー・フランキー演じるお父さんは、群馬県で小さな電器屋さんを営んでいる。小さな家に三人の子どもと親を含めた大家族で暮らしており、お金はあんまり無さそう。けれど家族との時間を大事にして、いつも一緒に遊んで幸せそうだ。
家庭をかえりみないリッチなエリートと、家族想いの貧乏なおじさんという対比は、あまりにもストレートで陳腐にも見えるのだけれど、リアルな演出と素晴らしい役者のおかげで、あらためて人生を考えさせられる。
「お金はたしかに大事だけど、家族との時間はもっと大事だ。」
……と言いきってしまうのは簡単だ。
けれど現実には、お金の心配や苦労は、人生におけるストレスの中でも最も大きな部分を占めるもので、充分なお金がない限り一生僕らについてまわるものだ。
福山パパとリリー父さんはあまりにもわかりやすい対比だけど、本当の幸せって何だろう?と、やたらリアルに、具体的に考えさせられるはずだ。
あそこに真木よう子を置く絶妙のキャスティング
これは完全なる私見なのだが、リリー父さんの奥さんを真木よう子に演じさせたのは、是枝監督のファインプレイだと思う。
真木よう子さんと言えば、近年の質のいい邦画のほとんどに出ているんじゃないかというくらいの演技派女優であるとともに、そのグラマラスな美貌は、現代のセックスシンボルの一人でもある。
地味めな尾野真千子さんが福山パパの奥さんで、セクシーな真木よう子さんががさつだけどやさしい田舎の貧乏母さんという設定は、それだけで僕ら男性の価値観にも揺らぎを与えてくる。
なんかリッチなイケメン福山より、リリーさんのほうがよくね?とか思っちゃうのは、リリー・フランキーという天才の力ももちろんだが、真木よう子の存在が大きいんじゃないだろうか。
男が父になるには、時間ときっかけが必要。
タイトルどおり、福山パパは取り違え事件をきっかけに成長し、「そして」父になる。
逆に言えば、それまでは形式的には父親だったけど、本当の父親になれてはいなかったのだ。
僕の経験から言うと、男は子どもが一人生まれたくらいでは父親にはなれない。世の女性は嘆くかもしれないが、オスという性は先天的にそういうふうになっているのだからしょうがない。
子どもが一人いるくらいでは、まだまだ人生の主人公は自分自身であり、嫁子どもは自分に付随した存在だ、くらいに傲慢に考える若者もいるだろう。僕がそうだったように。
二人目が生まれると、さすがにちょっと責任感が出てくる。一人だったら母親だけでもどうにかなっていた部分が、二人になると父親の協力も必要になってくるので、自然に父としてやるべきことが見えてきたりする。
僕の場合、三人目が生まれたときはじめて「あ、オレ父親になった!」という強い感慨を抱いた。
年齢や環境的な要因もあったのかもしれないが、僕の場合は、子どもが三人生まれてはじめて、人生の主人公の座を降りて、家族のために生きる決意が自然に出てきたのだ。
だから僕からしたら、子どもが一人だけの福山パパと、三人いるリリー父さんは、もう出てきただけで「出オチ」みたいに見えてしまった。父親になれてない傲慢な男と、人生を家族に捧げた男が、出てきた時点で明確に見透かせてしまったのだ。
僕はリリー父さんで、僕の父は福山パパだった。
現実の世界を眺めてみると、そういう意味で「そして父になる」ことができていない父親というのはたくさんいる。最終的に父にならなかった男だってたくさんいる。
僕は自分の父を尊敬しているけど、彼もまた「そして父になる」ことができなかった人の一人だと思う。
田舎から夢を追い求めて一人で上京し、若くして成功した父は、それこそ仕事を第一に毎日懸命に努力をしてきた。高級マンションに住んで裕福な生活を営む父は、まさに福山パパだ。
僕は親戚の家にあずけられたり全寮制の学校に放りこまれたりしたので、あまり父との時間を過ごしていない。血は繋がっているけど、時間を共有してこないまま、大人になった。
その反動なのか、僕は子どもをたくさんつくって、東京から地方に移住して、貧乏ながらも家族で幸せに暮らしている。まさにリリー父さんかもしれない。
青山の高級マンションでの裕福で孤独な生活も、茅ヶ崎のオンボロ借家での貧乏ながら幸せな生活も、両方を身をもって知っている僕にとって、この映画は特別な意味合いがある。
そして、血か、時間か。
最終的に福山パパは、子どもを自分の従属者としてではなく、一人の人間として認めることで、本物の父親になるのだが、さて、血を取るのか、時間を選ぶのか。
そのへんはさすがに書かないので、ぜひ本編を見てほしいところなんだけど、ひとつだけ言えるのは、じつは血でも時間でもどっちでもいいということ。
大切なのは、かつて子どもだった男が本物の父親になる過程であって、血が繋がっているのかどうかは、じつは二の次なのだ。
僕は、幼少期に僕を育ててくれた田舎の伯母を本当の母親だと思っているし、あまり多くの時間を共有できなかったけれど、血の繋がった父もまた本当の父親だと思っている。
血でも時間でもどっちでもいい。でもできれば、血を分けた子どもたちと、たくさんの時間を過ごしたいと、未熟な父は今日も思うのである。
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