たしかにうちの家内も毎朝五時半に起きて、僕と長男のお弁当を作ってくれている。僕は四時に起きているけど、寝るのは家内のほうがずっと遅い。
暑い日も寒い日も、気分や体調が優れないときだって、誰にも文句を言わずに、朝も早うからせっせと家事をこなしている。
僕はキッチンテーブルでブログを書きながら、よく動くその背中を見つめて、この人も母親になったのだなあ、とあらためて頷く。
過日。長男がお弁当を忘れていったことがあった。家内は自転車の後ろに次女を乗せて保育園へ向かう前に、逆方向にある中学校に寄って長男にお弁当を届けたという。
「よくお弁当届けたね。自分が忘れたんだから、僕なら取りに来させるけどな」
僕がそう言うと、家内は笑いながら応えた。
「私もよく届けてもらってたから」
家内は若い頃、ずいぶんと両親に反抗していたらしい。
グレていたわけではないけど、授業をサボってみたり、勝手にアルバイトを始めてみたり、伸びすぎた髪の毛を切ってくるようにと美容院代を渡されたのに染髪して帰ってきたり、門限を破ったりと、自由奔放に振る舞っていた。
ある朝、玄関を出ようとする家内に、お母さんが「お弁当忘れてるわよ」と声をかけると、家内は振り返りもせず、ぶっきらぼうにこう言った。
「カバンが重くなるからお弁当いらない!」
世界は自分を中心にまわっている、と勘違いするのは、若者の特権だし、誰もが通る道ではあるけれど、それにしてもあまりにも非道い台詞である。
家内はその日、パンか何かを買って食べたのだろうが、そのお金は誰が稼いだというのか、そしてお母さんはせっかくこしらえたそのお弁当をどうしたのだろうか。
大人になって以前より世界がクリアに見えるようになると、若かりし頃の過ちに胸が痛くなる。
最近になって、そのときのことを尋ねると、お母さんは「そんなこともあったかしらねえ」と笑ったと言う。
僕らは間違いながら大人になって、間違いながら親になるから、子どもの間違いをそっと許してあげることができる。道を誤ったときに、手を添えて導くことができる。
家内はあの朝自分が放った台詞を死ぬまで忘れないだろう。そしていつまでも胸の奥に残る、そのチクッとした切ない痛みが、家内を海のようにやさしい母親にしてくれるのだ。