前回☞ 東福寺の紅葉とシフォンケーキと後ろの景色〈京へ西へ。その八〉
京都に来る前に、いろんな人にオススメの名所とかを訊いてたんだけどもね。
ある一人の友人、おっさんなんだけど、彼がね、以前、京都一人旅をして、〈悟りの窓〉の前で泣いた、っていう話をしてくれて。
おっさんやで笑。いつもシニカルでクールな感じの奴が、京都で一人、感傷の涙をこぼしたって?
俄然興味が出てね、訊いたら、〈源光庵〉っていうところらしくて、そこには〈悟りの窓〉と〈迷いの窓〉というのがあると。
もう、そそるじゃん。惹かれるじゃん。
サイト見たら、
悟りの窓の円型は
「禅と円通」の⼼を表し、
円は⼤宇宙を表現しています。迷いの窓の⾓型は
「⼈間の⽣涯」を象徴し、
⽣⽼病死の四苦⼋苦を表しています。
と、ある。
うん。なんとなくわかる。
禅の心は、円、だもんね。円で表される。
始まりも終わりもなく角に引っ掛かる事もない円の流れ続ける動きは、仏教が教える捕らわれのない心、執着から解放された心を表わしている。(ウィキペディア)
こりゃ行くしかねえ!と思ってたら、なんと、なんとなんと、〈源光庵〉改修工事のため、長期拝観休止!2021年秋頃まで、見られないんだってよ!うそーん!
ってなことで、諦めかけたんだけど、ちょっと調べてたら、京都には、他にも〈悟りの窓〉があるっていうじゃないの。
ってことで、〈源光庵〉の代わりっていうとアレだけど、行ってきたの〈雲龍院〉。
雲に乗る龍。ふらふらさらさらのほほんと暮らすゴクつぶしの竜さんにピッタリの名前じゃないの。
前回、途中まで書いたけども、〈雲龍院〉への道すがら、まわりに人がいなくてね、あんま観光地としては有名じゃないのかな?門をくぐったときも、ぜんぜん人がいなくて、ただそれだけで、
ああ、ここだ。
と思った。直観。
ああ、、、ここだ。
でもね、その場に立ちすくんで、静寂の境内の庭園を眺めてたら、団体客がぶわーってやってきてね笑。それも立て続けに二組。
中年のおいちゃんおばちゃんが、やんや騒ぎながら、建物に入っていきはるわ笑。
あちゃちゃちゃ、と思ってね。こりゃ、悟って涙するような雰囲気じゃねえぞと笑。
でも、なんかそんときは、安らいでいたというか、心が静か、平穏に凪いでてね、まあしゃあないわって、なるべく人がいない部屋や場所を選んで、ゆっくり回ってたの。
そしたら、ふと、驚いたんだけど、いつの間にか、部屋に、一人になってた。
そんでそこに、あったの。円い窓と、四角い窓。
あああ。きたわと。
さっきまでガヤガヤ大騒ぎだったのに、まだ遠くの方に大勢の人の気配はあるんだけども、ここだけ、静寂。目にも、耳にも、静か。
でもなんか、ビビッと感じる直観のようなモノはなくて、静かで心地いいのだけれど、悟りも迷いも感じない。
ふうん、そうか、そんなもんか、って思いながら、ふすまつづきの隣の部屋に入って、ぼんやりしてたら、また人がたくさん集まってきた。第二陣か。
若者の二人組が、ドデカい一眼レフで執拗に部屋や庭の紅葉の写真を撮ってたり、おばちゃんも縁側に立って庭をバシャバシャ撮影してる。
違うんだよな。
そこじゃないんだよ。
たしかに庭園は美しいけれども、縁側から庭だけ見ても、本当の美しさには辿り着いてないんだよ。
この部屋の、ここ、座布団のあるここに座って、ここから、窓が切り取った枠、額縁の中に見える風景、目に入るそれ全体が、いちばん美しいんじゃないか。
なんて、心の中でかるくディスってた。
だってホント、皆さんファインダーばかり覗いて、写真という旅の証拠を残すことばかりに夢中で、なんも見てないんだもん。
それに、写真技術でも、額縁構図ってあるだろう?って。
うん。そうだね。うるせえよな。余計なお世話や笑。
でもそうやって心裡でディスってたら、ふわっと、ぶわっと、わかった。
わかった。
わかっちゃった。
ああ。
大事なのは景色じゃない。
窓なんだ。
全体なんだ。
窓が、それを美しくする。
窓が、それを醜くもする。
世界を、どう見るか。
丸く無限に見るか。
四角く切り取るのか。
迷いか。
悟りか。
世界がどうなのか、じゃない。
世界をどう見るか、なんだ。
オレのカタチをした透明ななにかが、オレの身体をすうっと通り抜けるように、全身で、感じた。
身体の中に、風が、吹いた。
ああ、そういうことかと。
こう書いても、これを誰かが読んでも、あの直観は、伝わらないだろう。うん、伝わらないよ。
理解した、のではなく、感じた、のだから。
わかった、のではなく、知った、のだから。
迷うって、そういうことか。
悟るって、そういうことか。
迷うって、決めることだ。
知らないくせに、バカなくせに、この宇宙において、時の流れにおいて、限りなくちっぽけな存在のくせに、無知の知を知らず、わかったつもりになって、決めるから、どっちがいいかな?って、迷う。
悟るって、ただ、在る、ことだ。
オレが、ここに、在る。
人が、いる。
世界が、ある。
雨が、ふる。
猫が、鳴く。
屁が、出る。
おっぱいを、触りたい。
なんでもいい。
ただ、いろんなものが、在る。
今、これを書きながら、あのときを思いだして、なんかまた、心が震えてる。
ああ、ただ、在るのかあ。
なんだよ、そうかよお。
にゃあ。
今、この瞬間は、そんな平穏な凪にいるけども、これから家族や友人、他者と関わったり、仕事や趣味、やりたいことを営み、暮らしていれば、また心が波打ち乱れていくこともあるだろう。
この世の森羅万象を、ただ、在るんだなあ、などとは思えず、イライラしたり、モヤモヤしたり、ビビったりも、するだろう。
でも、あの感覚、あの感触を経た、体験した、味わった、というのは、それはそれは大きなことだった。いやあ、たまらん。
そんな感慨に打ちひしがれながら、もっかい窓を見てみたらね、
オイ、オイオイオイ……。
よく見たら、〈悟りの窓〉、円くなくね?笑
窓自体は円いけど、障子が入ってて、四角いじゃん笑。
角で切り取ってんじゃん笑。角が立ってんじゃんよ笑。
オイオイオイ……。
だから、さっき見たとき、直観的に何も感じなかったのか。
なんてのはこじつけかもしれないけど、でもたしかに今見ても、円のまろやかさというか、安らぐ包容力のようなものは、この窓からはあんま、伝わってこない気がする。
で、今、〈源光庵〉の窓の写真をネットで見てみたら、メッチャ円いじゃん!
真ん丸の○で、さらにすぐ隣に角窓もあって、畳の部屋に余計なものが一切おかれてないから、もうなんか純粋に、悟りと迷いを俯瞰できるっていうか。
怒られちゃうかもだけど、これ見ちゃったら、オレが見たあそこの窓、なんか、あの、その、ちょっと、しょぼ、いや、しょぼぼぼぼ。
いやいや、比べて優劣つけるつもりもないけどさ。やっぱオレ、ぜんぜん悟ってねえな笑。
ともあれ、〈源光庵〉に入れなかったのは、いい忘れ物だと思って、いずれまた、絶妙な機会が訪れて、京へ足が向く日が来るのでしょう。
この旅でね、ものすごく強い実感をずっと感じてたのは、
自分が意外なほうを選んだり、思ってたのと違うほうへ進んだときに、ああ、そっちなんだな、って思うようになったことだね。
ああ、オレ、そっち行くんだ、っていう。
ああ、それって、そうなんや、っていう。
動く自分を、見てる感覚。
だから、間違いなんて、ない。
間違ったほうなんて、ない。そしたら、後悔も、ないもんね。つづく。