前回☞ 四角く切り取るか、ただ在る、を見るか。迷いの窓と悟りの窓〈京へ西へ。その九〉
〈雲龍院〉の悟りの窓で、打ちひしがれたせいか、すんげえ疲れちゃってね。
まあそうじゃなくても、朝からずーっと歩いてるからね。後でiPhone見たら、この日は三万歩、二十キロくらい歩いてるからね、そりゃ疲れる。
でも、まだ夕方前で、時間的には早いし、銀閣寺とか哲学の道とかも行きたいし、どうしよっかな〜って迷ってたんだけど、でも、疲れてるときは直感が鈍ってるな、という直感だけはあって。
コレホント、そうですよ。疲れてると直感が冴えないから、選べない、流れない。
そういうとき、理屈に逃げて苦しくなるのをオレは知っている。
じゃあどうすっか、っていうと、休むのが一番だけど、オレは、とりあえず手放した。迷ったら、どっちも選ばない。
疲れてるから早いけど宿に戻るか、疲れてるけどがんばって銀閣寺へ行くか。わからないから、決めないで、とりあえず歩き出す。
どっちにしろ駅だなと、ふらふら駅に向かって歩く。
どっちを選んでも、何を選んでも、正解なんだもんな。
そんなことを考えながら。
なんでもない夕方の風景に心を打たれる。打たれてばっかり笑。
来たことも見たこともないのに、なつかしい街並み。
ふと、ある知人のことを思いだしていた。
あの人たちは、やってる仕事も冴えないし、お金もそんなに稼いでないし、服とか趣味とかもダサいし、パッとしない人たちだなあって、今まで、心のどっかでバカにしてたけど、じつは、あの人たち、メッチャ幸せなんじゃないか、と、ふいに思ったのだ。
オレは親父ばっかり見てたのかもなあ。
親父は、田舎から出てきて、社会的にも経済的にも成功して、お金持ちになって、見た目も趣味もカッコよくて、人に元気を与えて、テレビに出たり、葬式もものすごく人が来てくれて、超カッコいい人、というイメージ。
でも、今こうして俯瞰してみると、親父は、傍目には輝いていたけど、相応の悩みを抱えていたし、晩年はもとより、若い頃だって、いろいろ辛そうなところもたくさん見てきた。
それに比べてあの人たち、パッとしない仕事してるけど、あの人たちにスゴくフィットしてるし、自分では稼がないけど、なんだかんだけっこうお金あるし、自由で、マイペースで、好きなことめちゃくちゃやってて、悠悠としてる。
パッとしないけど心配事もなくのほほんと生きてるあの人たちと、輝いていたけどいつも何かを恐れていた親父と、どっちが幸せなんかな、なんて。
まあ、比較は、馬鹿げてるよな。
どっちも、ねえわ。優劣も、正否も。
それに、今さら、気づいた感。
今まで、こんなおっさんになるまで、やっぱり男たるもの、立派な仕事で身を立て、人に尊敬されるようなひとかどの人物にならなければいけない、という思いに、強く強く囚われていたのだなあと。
そうじゃねえよなあ。大事なものって人それぞれだよなあ。
って、するっと、心の鎖がほどけたような。
そうそう、この前、本宮ひろ志の『昼まで寝太郎』って漫画を読んでたら(なんつうタイトルだ笑)、主人公の寝太郎が、
「オレにとって一番大事なことは、好きな女とのんびり昼まで寝てることだ」
みたいなことを言うシーンがあってね。
寝太郎は、剣も強くてカッコよくて人気者だけども、そんなことより、大事なことはそういうこと。それでいいんだよなって。
オレにとって、そういう風に言える大事なことってなんだろうな。
で、ふらふら歩いて、東福寺駅に着いたら、もう泥みたいに疲れちゃって、なにも考えずに、宿に向かってましたわ。迷わずとも、流るるるるる。つづく。
☞ 祇園の夜の灯り。人工の風景。木屋町の町中華〈京へ西へ。その十一〉