Interstellar1

まさに怒濤のノーラン、である。

『ダークナイト』三部作や『インセプション』など、上映時間が長いだけでなく内容も濃密すぎるクリストファー・ノーラン監督の、真骨頂ともいえるSF超大作の誕生だ。

ノーランの全力に負けるな

なんと疲れる映画だろうか。

僕はIMAXで鑑賞したのだが、視野いっぱいに広がるスクリーンと、比喩ではなく座席や僕らの身体をぶるぶる震わせるほどの大迫力の音響効果で、開始数分で物語にぐいと引きこまれた。

あまりの迫力と展開に呼吸が止まってしまうのは『ゼロ・グラビティ』も同じだったが、本作はその密度が違う。物語の設定や詳細が絡み合った糸のように複雑になっていき、気づいたら僕らの体力まで奪われている。

このまま三時間弱(169分)も耐えられるか自分の心身が心配だったが、どうにか生還することができた。

予告編がみすぼらしく見えるほど。

「映画は本編より予告編のほうがおもしろい」という皮肉があるが、たしかに象徴的なシーンを濃縮させた予告編のほうがうまくできている作品も多い。

けれど本作の場合、本編のほうがずっと人間味と情と物語の奥深さを感じられ、予告編がみすぼらしく感じられるほど。特に主人公のキャラクターの人間味は、予告編ではほとんど表現できていない。

ノーランの濃厚な物語を伝えるのに、予告編の短い尺では足りないのだ。

何本もの映画が凝縮されたような密度

ポスターや予告編を見ればわかるように、物語の核となっているのは、宇宙という舞台親子愛だが、そのどちらもが濃密にすぎるほど濃密なのだ。

並の監督であれば、宇宙への冒険というSF映画としてだけでも相当の大作に仕上げることのできる密度でありながら、大切な人との愛情も、そんじょそこらの恋愛映画では太刀打ちできないくらいに色濃く描かれている。

SF映画としても、親子愛を描く映画としても、それぞれ片方だけでも一本の映画になってしまうほどでありながら、ブラックホールや時間軸など最新の科学知識がふんだんに盛り込まれているのだから、お腹も胸もいっぱいだ。

あくまでも娯楽映画であることのすばらしさ

あまりにも濃厚な密度について延々と書いてきたが、個人的にノーランがすばらしいと思うのは、それでも娯楽映画として仕上げてくるところだ。

彼ほどの強いオリジナリティと意志を持った監督ならば、キューブリックのようにアーティスティックな方向に流れてしまいそうなものだが、どんなに深く彫り込んでいっても、最終的には僕ら観客を楽しませるエンターテイメントを見せてくれる。キューブリックだってそうだけど、ノーランのほうがより娯楽性が高い。

こむずかしいことが理解できなくても、楽しいのだ。

それはルーカスやスピルバーグといった70〜80年代の娯楽映画で育ったノーランらしく、同じ時代を映画少年としてすごした僕も個人的にとてもうれしいところだ。

スクリーンの奥から伝わったノーランの熱意

もうひとつ感動したのは、ノーランの熱意だ。

彼がCGを極力使わずにとうもろこし畑や宇宙船を実際に制作してしまったというのは、鑑賞後に知ったことなのだが、僕はそれを聞いて納得がいった。

宇宙へ旅立つ前のなんでもないシーンのひとつひとつが、それこそトラックがとうもろこし畑をなぎ倒して疾走するシーン、車の窓外にこびりついた砂嵐の残骸といった細部が、それだけで僕の心をぶるぶると震わせたのは、リアルを追求する彼の熱意なんだろう。

もちろんCGを使わずにセットを用意すればいいという話ではない。けれど彼の作品に対する全身全霊が、あらゆるシーンに注ぎ込まれているのを痛いほど感じることができた。

僕は彼のように全力で生きているだろうか。自分のすべてをかけて何かをやっているだろうか。

物語とは別のところで、またしてもそんな感慨を受けてしまったのだった。

体調を整えて、いざ劇場へ。

作品の密度が濃いというのは、言い換えれば詰めこみすぎといえなくもない。

『インターステラー』の迫力の展開と愛情の喜びを同時に、しかも存分に味わうためには、それなりに身体と脳が健康な状態でないとむずかしい。

いずれにせよ映画館で観なければその魅力が半減するのはたしかだ。

つべこべ言わずに今すぐ劇場へ足を運ぼう。心身の健康を整えて、上映前にはちゃんとトイレをすませておこう。三時間の長尺に耐えられずに、一度トイレに立ってしまったことを、僕は死ぬまで悔やみ続けるだろうから。85点。

予告編