そのとき僕は四十歳になったばかりで、北海道の山奥にいた。
その美しいキャンプ場は、美瑛の街から十勝岳に向かって20kmほど走ったところにある。すぐそばにはAppleが壁紙に使ったことで世界的に有名になった「青い池」があった。
観光名所は多いが、北海道らしくあたりの大自然は本物で、ここが日本であるということを一瞬忘れてしまうほどだ。
僕以外には、旅慣れた風のオートバイ乗りが一人と、大学生と思しき若者たちのグループに、大人しい家族連れが二組ほどいたけれど、あまりにも雄大に奥へ奥へと広がるそのキャンプ場は、孤独を通りこして恐怖を感じるほどに静かだった。
その朝僕は、ふかふかの芝生の海に張ったテントでの快適な眠りから目覚めると、奥まった場所にあるトイレに入った。
最近はキャンプ場といえども洋式トイレが多いのだけれど、さすがにこの大自然の野営場のトイレは、昔ながらのくみ取り式だ。
僕は右足のかかとに古傷を抱えていて、前傾姿勢にかがみ込むといまだに鈍い痛みが走る。
やや憂鬱になりながらも便器をまたいで、小鳥のさえずりと、まわりを忙しなく飛びまわるアブの羽音を聞きながら用を足す。
そのとき、僕の尻の穴から長旅の疲労と昨夜のビールの残骸がひり出されたのと同時に、頭の中に何かがすっと入ってきた。
それは言葉ではない。
感情。概念。閃き。天啓。
釈然としないが、それはとにかくやさしい感触で、僕は寝起きでまだ冷めた身体全体があたたかくなるのを感じた。
後始末をしてトイレから出て、トボトボと自分のテントへ向かって歩いているとき、ぼんやりとだけれど、その「入ってきたもの」の正体が見えてきた。
「もう、大丈夫」
これはおそらく後から僕自身が置き換えた言葉にすぎないのだが、今のところこれが一番しっくりくる。
「もう、何があっても大丈夫さ」
それが、その朝北海道の静かな山奥のぼっとん便所で、僕の頭に入ってきた何か、だった。
僕はその日、いつものように早々にキャンプを撤収すると、予定どおり「日本一美しい村」と呼ばれる美瑛の観光名所をオートバイで走りまわった。あいにくの曇天に加えて、多くの観光客が道端に車を駐めて写真撮影をしていたので、ここが日本一美しい村だとはとても思えなかったけど。
僕はガイドブックの写真よりもずいぶん色彩に欠けた美瑛の畑を眺めながら、その朝頭に入ってきた何かについて考えていた。
これからも、僕や僕の家族には、様々なことが起こるだろう。
小さなことから大きなことまで、躍りあがって喜ぶようなことも、あるいは泣き喚いて家を飛び出すようなことだってあるかもしれない。
でも、何が起ころうと、僕は、僕らは大丈夫だ、という何かが、脳天からすっと入ってきて、今も僕の心のずっと奥の方に、ある。
十日間に及んだ北海道の旅から帰ると、すぐに僕は日常にからめとられた。
あれだけの大自然の中で、あれだけ人から離れて、からだがぶるぶる震えるほどの感動すら味わったのに、日常はいつもと同じ顔で眼前に横たわっていた。
僕はそこに戻ると、旅に出る前と同じように、大小の悩みや問題を抱えて、あいかわらず生きている。
それでも、僕の心の奥の方には、あの何かがまだあった。
それは眩い光を放ってはいないけれど、たしかにここにある。
だから僕は今日も、なんだかんだ笑っている。そしてできることなら、このあたたかい何かを、あなたにも伝えたい。
「もう、何があっても大丈夫さ」
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