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先日都内に出る用事があって、家族を車に待たせている間に、近くを通ったおじさんがわざわざ運転席の家内を覗きこみながら、「なんでこんなところに駐めてんだよまったくよ」とひどい顔で舌打ちをしていた、らしい。

小学生の娘が興奮しながらその話をして、「なんであんなこと言うんだろうね」と頬を膨らませる。「ぶっ飛ばしてやればよかった」ママはおどける。

「きっと想像力がないんだね」パパはしたり顔でつづく。

パパたちは大事な用事があって、いつものコインパーキングに来たんだけど、今日は満車だったから、一時的にわきに駐めさせてもらって、パパが他の場所を探しに行ったんだよね。そういう「他人の事情」を、そのおじさんは想像できないんだよ。自分の物差しでしか世の中を見つめられない。余裕がない人なんだね。

「でもパパもさっき高速道路で文句言ってたよね」

いきなり矛先が自分を向いて、ぼくはぎくりと首をすくめる。そういえばさっき車線変更をしようとした際に、なかなか入れてくれない先行車に対して「なんなんだよこいつバカじゃねえの!」と大声で悪態をついていた気がする。

「パパも余裕と想像力がない人なんだね」

子どもの素直さが、親の浅はかさに突き刺さる。

「そっか、違うね。舌打ちをしたあのおじさんは、想像力のない、自分の物差しでしか世の中を見つめられない、余裕がない人なわけじゃないね。あのときは、たまたま余裕がなかっただけかもしれない。パパがさっきそうだったように」

娘はふうんと考えこむ。

脳科学の見地から言うと、世の中には「頭がいい人」と「頭が悪い人」がいるのではなく、「脳が健全に動いている状態」と「動いていない状態」の人の違いがあるだけだという。それと同じで、想像力のない人、余裕がない人、残酷な人、身勝手な人、がいるのではなくて、「そういう状態」にいるか、いないか、という違いがあるだけだ。

ぼくだってあなただって、明るくやさしく愛される人である「とき」もあれば、いらいらしてめんどくさい人である「とき」もある。自分や他人を、そういう「人」であると断定するのは、それこそ想像力が足りない。

思えば今年の夏頃のぼくは、仕事もプライベートも絶好調で毎日が楽しかったけれど、父が唐突に亡くなってからは、揺るがなくなっていたアイデンティティ(自分らしさ)に動揺が走り、進むべき方向を見失い、灰色の日々がつづいた。自分でも、とても同じ人間とは思えないほどだった。

いろんな状態のぼくがいて、いろんな状態のあなたがいて、いろんな状態のあの人がいる。だとしたら、ぼくはあなたで、あなたはあの人。みんな、同じだ。ぼくだってあなただって、いつ不倫をして子どもを殴ってシャブを打つかわらかない。そう思えれば、世界はずいぶんましに見える。

子どもたちに偉そうなことばかり口走ったぼくは、「親は子に育てられる」という言葉を思い出して苦笑する。背骨がバキバキ音を立てて、今さら背が伸びているような気すらする。

これもそういうお話だったりします。