あたたかくなってきたので、朝のさんぽを再開した。

 さんぽなんかしている時間や余裕はない、と言いながらあたふたしているときは気づかないものだが、海沿いをゆっくり歩きながら流れるままの思考に身をゆだねていると、さんぽをしないから余裕がないのだと気づく。「本を読む時間がないという人は、本を読まないから時間がないのだ」と言ったのはゲーテだったか。

 まだすこしぼーっとしながら朝の道を歩いていると、やがて心身が活性化されて、いろんなことを思い出す。昨日まで心配していたことは本当に些細なことだったと、僕が本当にやりたいことは何だったのかと、そして人生というのはいかに自由であるかということも。

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 親父が亡くなってから、自分の死をリアルに想うようになった。僕は明日死ぬ、という仮定を真剣に考えてみると、ぞっとして哀しみに包まれるけれど、その直後には、”ただ” 生きていることに対するとてつもない喜びが溢れてくる。

 明日逃れられない理由で首つり台に上る運命であるのだとリアルに想像すると、自分がやり残したことのなんと多いことか、に打ちのめされる。いつかやりたかったこと?将来の夢?もはやそんなものはない。あるのは眼前の死。一瞬でぶった切られる人生。

 そこまで真剣に想像して絶望すると、「いやいや、僕は首つり台になんて上がらないんだ。とりあえず明日くらいは生きていられそうだぞ」と安心し、そして、”ただ” 生きているだけでなんと幸福であるかを、ようやく受け容るのである。

 明日死ぬ、ことを想像すること__死を想う__ことは、生を実感することに他ならない。メメント・モリとは、死を想え、すなわち「今を生きろ」ということだ。“Carpe diem”。英語で “Seize the day”。今日を、掴むのだ。

 仕事や家事など、忙しない日常を歩んでいたら、そんな悠長な想像をしている時間はないかもしれない。けれどもしかしたら、そんな時間を持てないからこそ、毎日が忙しないのかもしれない。明日には死ぬ。未来や金に苦しむな。今日を、掴め。