その日の天使は、やたら毒舌だった。

  一人の人間の一日には、必ず一人、「その日の天使」がついている。

 と、中島らもは言う。

 こんな事がないだろうか。暗い気持ちになって、冗談でも”今自殺したら”などと考えてる時に、とんでもない友人から電話がかかってくる。あるいは、ふと開いた画集かなにかの一葉によって救われるような事が。それはその日の天使なのである。

 それは売店のおばちゃんだったり、近所のガキが走り回る姿だったり、海外ドラマのセリフだったり、ファミレスのチョコレートパフェだったりする。どんなにしんどい日でも、気づかないだけで、天使はさしつかわされている。

 もっともわかりやすいその日の天使の例は、ハイロウズの名曲「日曜日よりの使者」だろう。この曲は、甲本ヒロトが自殺を考えるほどに落ちこんでいた時に、日曜日に放映しているダウンタウンの「ガキの使いやあらへんで」を観て、思わず笑ってしまい、自殺を思いとどまったときに作った、とされている。真偽のほどはさだかではないが、「世界中がどしゃぶりの雨だろうと、ゲラゲラ笑える日曜日よりの使者」とか「適当な嘘をついてその場を切り抜けて、誰一人傷つけない日曜日よりの使者」なんて歌詞はまさに「ガキ使」っぽいし、「使者」という単語も「使い」からきているとか、詩全体を眺めてみてもヒロトと松ちゃんの繋がりを併せて考えてもまあおそらくそうなんだろうな、という感じはする。

 たしかにどんなに思い悩んで絶望的な気分のときでも、しょうもないことに思わず笑ってしまったら、今まで自分が悩んでいたこともしょうもないと思えて、苦笑いしながら救われることがある。ウディ・アレンの映画を観るといつもそう思う。そして、アレンやチャップリンが言うように、悲劇は時間が経てば喜劇であり、人生は揺りかごから墓場までコメディなのであり、その日の天使はいつも、それを思い出させてくれる。

 過日、やるべきこととやらなければいけないことが山積みになって気が枯れていたとき、車での移動中にiPhoneのシャッフルで音楽を聴いていたら、唐突に綾小路きみまろの漫談が流れはじめた。中高年のアイドルと呼ばれるだけあって、軽妙な毒舌で客席のおばちゃんたちをいじるトークは痛快で、家人と二人でけらけら笑っていたのだが、よく耳をすませて聴いてみると、テンポのよい一連の冗談のなかで、なかなかいいことを言っているのである。

「どんなにブサイクな人でも、みんなしあわせになるために生まれてきたのです。たとえあなたみたいなお顔でも」などと客席を笑わせながら、「決してお金持ちになるためではありません。しあわせというのは……」とつづき、一見単なるお笑いショーに見えるのだが、人のしあわせというのは、無理したり自分を蔑んだりして手に入れるものではないんですよ、というような普遍的なテーマが随所にちりばめられている。どんな娯楽映画にだって大切なメッセージが込められているように、漫談にもそんな熱い気持ちが込められているのかと感激してしまった。これはたいへん見事なエンターテイメントである。

「あれ?そもそもなんで綾小路きみまろのCDなんか持ってるんだっけ?」家人に尋ねると、

「私が入院していた時に、お父ちゃんが持ってきてくれたんだよ」と、遠くを眺めながら言う。

 数年前に家人が鬱病で入退院を繰り返していた頃、病床の愛娘を元気づけようと、義父がCDプレーヤーと一緒にプレゼントしてくれたのを思い出した。

 きみまろも役に立ったのだろう、家人も今はとても元気になったが、そんなやさしかった義父は、もうこの世にはいない。僕の親父も、昨年逝っちまった。二人ともしばらく無言でいたが、いつの間にかあたたかい涙が溢れてきた。きみまろの軽妙なトークが延々と車内に響き渡っていた。どんなにブサイクな生き方でも、しあわせになろう。そう思った。その日の天使は、やたら毒舌だった。