Shinryakusha

『散歩する侵略者』っていう映画、ちょっとビックリしたんだよ。

長澤まさみに松田龍平、長谷川博己ってキャストで、ちょっと薄暗い感じの映像だったから、トラウマ系の猟奇殺人とかのサスペンスだと思ってた。

そしたら、フタを開けてビックリ。松田龍平が宇宙人だっていうじゃないか。このリアルなトーンで、本気かよ黒沢清監督、って思ったよな。

長澤まさみの旦那さんが龍平なんだけど、実体のない宇宙人に寄生されて、操られちゃうって設定。エイリアンとかの宇宙人じゃなくて、『寄生獣』に限りなくちかい。宇宙人ていうか「侵略者」って呼ぶんだけどさ。

で、おもしろいのは、その異星からの侵略者たちは三人いて、彼らの使命は、侵略前に地球人の性質を調査するために、俺たち人間の<概念>を奪っていくことなんだ。

たとえば、長澤まさみの妹(前田敦子)に、「家族って何?教えてよ」と説明をしてもらう。

妹は、龍平が記憶障害か何かになってると思ってるから、あれこれ説明するんだけど、そのとき頭の中にイメージとして浮かんでる「家族」の<概念>を、侵略者龍平は指をぴっと額にあてて自分のモノにしちゃう。

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それはコピー&ペーストじゃなくて、カット&ペーストだから、龍平が理解した代わりに、妹は「家族」って<概念>を失って、理解できなくなっちゃうんだ。

わかるかい? だから彼女は、自分の姉が家族だってことがわからなくなって、触れられると「気持ち悪い!」っつってどっかいっちゃうんだ。「いちいちあなたに私のことを説明する必要はない」なんて言ってな。

同様に、ある者は「自由」という<概念>を、ある者は「所有」という<概念>を、というように、「自分」「仕事」「迷惑・邪魔」など、あらゆる<概念>を奪われていく。

ところが、だ。

そうやって、生きる上で大切な<概念>を失った者たちは皆、どこか幸せそうなんだよ。

「家族」を喪失した妹は、晴れ晴れとした顔で出ていく。これは、「家族」ってものを手放したともいえるだろう。「家族」ってのは、生きる拠り所でもあるけれど、同時に、足を引っぱる<しがらみ>になることだって多々ある。

親の体面に泥を塗らないために、家族に迷惑をかけないために、やりたくもないことをやって人生を浪費している人にしたら、「家族」なんて奪われたほうが幸せなのかもしれない。

「自由」を奪われた母親は、定められ安定した人生を生きることに安堵しているように見える。自由って、じつはけっこう不自由なんだよな。

「所有」を奪われた者は、物への執着を手放し、「自分」を奪われた者は、他者への嫉妬を手放し、「仕事」を奪われた者は、自分が本当にやりたかったことに目覚め、「迷惑・邪魔」を奪われた者は、友愛に目覚める。

つまり彼らは、大切な<概念>を奪われているようで、不必要な<しがらみ>を手放したともいえるんだ。

それは、俺たちがみんな、大切だと信じているけれど、そのじつ、自分自身を苦しめたり、縛りつけている<概念>に、がんじがらめになっている、ってことだよな。

これってまさに、心理の世界で<ネガティブ・ビリーフ>とか<刷り込み>とか呼ばれるもので、大切な<概念>が、俺たちを息苦しくさせてるんだ。

そう考えてみると、俺も数年前に、「家族」っていう<概念>を(やや)手放すことで、楽に生きられるようになった。

つまり、親の期待にこたえられなくても、いい父親じゃなくても、家族に文句を言われても、恥ずかしいと思われても、俺は俺で、好きに生きていい、って思えたってことさ。

もしあなたが今、やりたくない、会いたくない、触れたくない、大嫌いって考えている何かを持っているとしたら、それはあなたを縛りつけている<概念>なのかもしれないよ。

俺たちは、侵略者が言うように、

「言葉」に惑わされ、「概念」に縛りつけられている。

あなたが毎日使っているその「言葉」、本当に意味を理解しているかい?「家族」って、どういう意味だったっけ?

「概念」から離れて、「言葉」だけが一人歩きしてやいないかい?守って見張ってコントロールするのが「家族」だったっけ?

そして、その「概念」って、本当に必要なんだろうか?

なんてね。けっこう考えさせられる映画だったよ。

残念ながら、予算とか時間の関係で、原作にあるであろう深遠なテーマが薄まっちゃってるけど、まあそれはそれで。

でもこの映画観ると思うんだけど、松田龍平って、本当に宇宙人なんじゃねえの笑?