ストーカーも放火魔も僕もあなたもふつうに電車に乗っている。

「だれかの木琴」って映画、ぶっ飛んでてよかったですねえ。

こういう、それほど話題にならなかったけど、じつは静かにぶっ飛んでる映画を偶然見つけるとワクワクしますね、オッス、オラ竜。

フィットしない人はモヤモヤイライラするかもな作品だけど、僕はスゴく好きです。こういう映画の描き方と感触は初めてでしたね。原作小説はどのように描かれているのか知りたくて、すぐにKindleで買っちゃったくらい。

池松壮亮演ずるイケメン美容師と、常盤貴子演ずる人妻の物語なんですけどね、興味を持たれた方は、この先は読まずに、NetflixとかAmazonプライム・ビデオにありますんで、ちゃんと本作を見てから、また戻ってきてください。そこまで興味が沸かないって人と見たことある人だけ、このまま読みすすめておくんなまし。

 

で、概要だけ聞くと、池松壮亮と常盤貴子の不倫愛みたいなの想像するじゃないですか。倫理は破ってるけど純愛だよ、みたいな失楽園的な。ところが、物語が進んでいくと、池松壮亮がぜんぜん乗り気じゃない。というか、常盤貴子も恋に落ちて熱に浮かされて盲目になって、みたいなわけでもない。ストーカーっぽいことしてるのに、なんか淡々としてる。旦那さんの勝村政信もいい人なのか悪い人なのかよくわからない。娘と父母の関係も良好なんだか表面的なんだかわからない。出てくる人みんな、いい人なのか悪い人なのか、何を考えているのか、ちっともわからない。

ぶっちゃけ開始数分は退屈で、これ失敗だったかなと見るのをやめようかと思うくらいだったんだけど、次第に「こいつらどうなってんだ?」「この先どうなるんだ?」というミステリー要素にぐいっと心を掴まれ、先が気になってきます。この退屈すら意図されていたのかもしれないですね。

たまには人が死なない映画を見たいなあ、と思って見はじめたので、僕はてっきり、不倫純愛ものだと思い込んでいたわけですが、徐々に常盤貴子がおかしくなっていくし、家に最新のセキュリティシステムを導入していたり、一家惨殺事件の話が出てきたり、物騒な伏線がたくさん散りばめられるので、どうやらこいつは純愛ものの皮をかぶったサイコミステリーらしいぞ、と思うわけです。

なのであとは、徐々に変になっていく常盤貴子が決定的な事件をやらかして、過去の陰惨な事件によってモチーフとして出てくる木琴の謎を解き明かしてチャンチャン、という、よくあるサイコストーカー映画だろうと。

ところが、常盤貴子は一向に破綻しません。常識的に考えたら、ストーカーっぽい、おかしなことばかりたしかにしてはいるんだけど、彼女は犯罪も犯してないし、そんな悪いことしてないし、本人はいつだって至って冷静。サイコにしてはちっともコワくない。彼女のまわりの人の反応も一定してなくて、旦那さんは心配はするけど基本的には動じてなくて、娘さんとか池松壮亮の彼女とかは大騒ぎするんだけど、池松壮亮本人は特に問題視してない。そう、常盤貴子演ずるちょっとエキセントリックな奥さんの言動を、問題視する人と問題視しない人が、同じ程度でうろうろしているので、見ている方も混乱するんですね。けっきょくこいつはいい人なのか悪い人なのか。どないやねん!と。

そんでね、終わるんです、すとんと、この映画(笑)。

そこが素晴らしいんですけどね。

伏線がめちゃくちゃ張られてるのに、ほとんど回収されないまま、謎が謎のまま、「あれなんだったんだよ……」ばかりなんですね。きっとこの映画が口に合わなかった人は、そういうモヤモヤを抱えているんだと思いますけど。

本作のメッセージって、そこなんじゃないかなあと。

つまり、この世の中って、映画みたいに、わかりやすくいい人や悪い人がいるわけじゃないですよね。そんなもん主観でしかない。そして人生には、いろんなことが、何の意味もなく起こる。意味づけするのはこれまた個人の主観です。ただ、いろんな人がいて、ただ、いろんなことが起こる。敵も味方も、伏線も、回収も、ない、という、究極のメタ視点というか、タオ的な大局観が、この作品の根底に這っている。

常盤貴子と池松壮亮は結ばれないんだけど、劇的な破局だったわけじゃないし、そもそもつきあってないしセックスもチューもしてないし、旦那さんも娘も他の人も、ハッピーエンドでもバッドエンドでもなく、ただまた、生きていく、という終わり。日曜日はいろいろあったけど、明日から月曜日だねがんばろーっていうような、諦念と希望の入り交じった感情。この終わりの静けさに、思わず唸っちゃったんですねえ。

これね、若い人にはわかりにくいかもしれないけど、うまく言葉にできないんだけど、つまるところ、

人っていろいろだよね。みんなふつうの顔して常識のある社会生活を営んでるふりしてるけど、変な人も危ない人も、ふつうに電車乗ってるよね。でもそういうもんだよね。良いも悪いもないよね。生きてる生きてくよね。

って映画だと思うんですわ。

変なのは常盤貴子だけじゃなくて、旦那の勝村政信だって街娼を買ったり同僚のOLとちょっと怪しかったり、ずっとクールな池松壮亮も、過去には暴力事件を起こしていたり、混乱したときに手慣れた手つきで刃物を取り出したり、じつはアブナイ部分を持ってるし、池松壮亮の彼女もゴスロリの店で働いていて変わってるし、まともに生きてるようで、みんなちょっとずつおかしいんですね。

これ、みんな、そうでしょ。僕もあなたも彼も彼女も、ちょっとずつ、おかしい。そんなおかしさのグラデーションがあって、倫理や法律で線が引かれてるだけ。

電車のシーンがおもしろくてね、座席に座ってる人が全員スマホを見てるんだけど、一人だけ年配の女性が遺影を持って泣いてるんですね。でも見た目には、スマホと遺影って形が似てるから、スマホいじってるように見えちゃう。みんな同じように見えるけど、中には違う人もいるっていう意図でしょうね。

どうやら原作の方は、ストーカーだって生まれたときからストーカーなわけじゃない、という視点で書かれているようですが(まだ読み終えてないけど誰かが書いてた)、映画の方は、より深く掘り進んで、放火魔とか犯罪者とか一線を越えちゃう(可能性のある)人も電車に乗ってるし、ストーカーまがいのちょっと変な人妻もいるし、けっきょくまともな人なんていないっしょ。ってかまともって何よ?みたいなメタ視点で描かれているような気がするんだな。

常盤貴子は最後のシーンで、リラックスしてソファで昼寝するんですね。そんとき、ずっと鳴っていたデタラメな木琴の音色が、美しい旋律に整うんです。人から見たら変わってるかもしれないけど、私は好きに生きた、っていう清々しさ。人って死ぬ間際に考えたら、どれだけ好きに生きられたか、後悔しなかったか、ってことじゃないですか、つまるところ。

こんなふわふわしつつ静かにぶっ飛んでる映画を撮る監督は、さぞかし若くて前衛的な人だろうと思って調べてみたら、なんと御年83歳の名匠・東陽一さんではありませんか。みなまで言わない奥深さ。行間たっぷりで、老子やタオを彷彿とさせる大局の目線は、やっぱりこれくらいの人生経験のある方ならではだなあと納得しました。

いろんな人が生きている。ただそれだけです。変わった人、迷惑な人もいるけど、僕やあなただって誰かから見たらそうとう変わってるし、迷惑ばっかしじゃないですか。

常識とか誰かに文句言われるとか、他人の価値観に翻弄されてないで、自分の木琴を奏でて生きていくっぺよ、と、おっさんはあらためて思ったのでした。勝村政信、常盤貴子のおっぱい揉みすぎです。ほいじゃ。