最近、予告編を裏切る映画が多いんだよ。
『ユリゴコロ』って映画も、吉高由里子ちゃんに松坂桃李だし、ちょっとサイコっぽいけど、けっきょくはロマンティックな恋愛物語みたいだと思ってたんだ。
でも、フタを開けたら、絶望だよ。残酷物語。
スイートな気分で見にいったら、心から血でるぜ。
絶望の先に希望が見える?
見えるかな?
本当に、その先に希望はあるのかな?
前半は、ただただ、すげえ痛い。物理的に身体に痛みが走る。
腕に刃物をあてて、ぶすりと深く刺して、そのままずぶずぶと切り裂く。
たぶんみんな味わったことのない、深い傷と、暗い痛み。
肉体的な痛みの描写の連続に、俺はマジで、映画館から逃げだしたくなる。
でも、その痛みの正体は、その肉体的な苦痛よりずっと深い、心の痛み。
自分の腕を切りつけることでしか、味わえない安堵。
滴り落ちる血だけが、もたらしてくれる平穏。
ひでえよ。痛えよ。
けれど、なんかちょっと、気持ちがわかっちゃう俺がいるんだよな。
物語の前半で描かれるのは、ある女の幼少期からの半生。
感情を知らずに生きる、無垢な女の子。
生きる心の「よりどころ」を持たない、不安定な少女。
俺が思いだしたのは、幼女連続誘拐殺人事件の宮崎勤。
村上春樹の『イン・ザ・ミソスープ』に出てきた殺人鬼・フランク。
彼らは、殺人なんて犯したくなかった。
彼らは、ふつうに、生きたかった。
でも、彼らにとって、人を殺すことは、スプラトゥーンで相手の陣地を塗りつぶすのと同じくらいの、快楽でしかなかった。
違うのは、その他の方法では、同じ喜びを味わえないということ。
彼らがほしかったのは、ふつうの人がふつうに生きる「ふつう」。
でも、彼らにとっての「ふつう」は、人を殺すことだった。
高校生の頃に見た、野島伸司のドラマ『高校教師』を思いだした。
ヒロインの女子高生の父親は、娘を犯す頭のイカれた芸術家。
でも彼の言葉は、俺の心の闇の深いところをえぐって見せた。
「ふつうってなんだ!」
ふつうってなんだろう。
俺はいつもその疑問を宙に浮かべながら、渋谷のセンター街を歩いてた。
それはつまるところ、こういう思いに収束された。
俺は、ふつうじゃない。
俺はふつうじゃないから、ふつうに生きてはいけないから、ふつうなんかでいたくないから、ふつうでない生き方をしてやる。
その居直りは、よりどころのない思春期の俺の、よりどころとなった。
それから俺は大学を辞め、パンクロックを聴き、浴びるように酒を呑み、中身のない小説を書き散らし、女たちを裏切り、社会不適合者に身を落とすことで、安堵を得た。
それは俺にとっての殺人だったのかもしれないな、などと大げさなことを思う。
人を殺したり、身を滅ぼすことでしか、喜びという感情を味わえない人間。
けれど次第に、彼女もまた、殺人以外の場所に、よりどころを持てるようになっていく。
自分の中の闇を抱えながら、誰にも頼れず、孤独に生きていた人間が、他者に支えられ、よりかかりあいながら、よりどころを見つけていく。
それは、俺自身の物語みたいに思えた。
あるとき、自分はふつうじゃないんだ、ふつうに生きちゃダメなんだ、と感じたことのある人にとって、この血まみれの映画は、安らかな希望になるのかもしれない。
人はよりどころがなければ生きていけない。
原作の小説のほうは救いようがないらしいので、試みにそっちも買ってみた。小説ならではの深い考察を読むのが楽しみだ。
吉高由里子ってやっぱり、スペシャルだよな。