悪人も俺もあんたも、死んだらハイさいなら。北野監督が描きつづける「死」ってやつについて。『アウトレイジ 最終章』

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『アウトレイジ 最終章』の感想? そんなもんあるかバカヤロー!

感想とかメッセージとか眠たいこと言ってんじゃねえぞコノヤロー!

……というのはアレだけど、このシリーズは、あとになにも残らない、いや、なにも残さない映画だからさ、見終わって暗い劇場から日常に戻るときに、ムムムってあれこれ考え込んだりすることはひとつもないよ。

ないんだけども、ただ、『アウトレイジ』『アウトレイジ ビヨンド』の前二作と比べて、北野武って監督の味が、だいぶ濃く出てたな。

『ソナチネ』っぽい殺伐としながらも人間の温度を感じさせる場面が多かったし、絵が全体的に暗いので、『ゴッド・ファーザー』みたいな重厚さも感じた。

それでもね、最後はやっぱり、パタッと終わる。なにも残さず、唐突に、終わる。

北野監督がいつも言うように、人間って、パタッと、ただ、死ぬんだよな。

銃で撃たれたり、刀で斬られたり、病気で苦しんだり、事故に遭ったり、なんでもいいけど、人が死ぬときは、「うぎゃあああ!」とか、「無念!」とか、「愛してるよ」なんて言ってるヒマはなくて、さくっと、死ぬ、だけ。

因果応報とか、罰が当たるとかなくて、運が悪けりゃ死ぬし、良けりゃ生き残る。

この映画でも、誰も彼もがさくっと死んでく。

ラストも、あっけなく、終わる。

え、終わり?……ってなもんで。

そういうのを、北野監督はいつも描いてる。

死んだら、終わり。パチン……OFF。

『ソナチネ』にしろ『HANA-BI』にしろ『アウトレイジ』にしろ、俺の好きな『BROTHER』とか、他にも北野作品はヤクザ・バイオレンスものばっかりだけど、それってつまるところ、ずっと「死」を描いてんだよな。

『アウトレイジ』シリーズなんてのはさ、「殺し方・死に方」大図鑑って言えるくらいの、様々なバリエーションの「死」が、道端のアリを踏みつぶすように簡単に行われてる。

そうやって、二時間ものあいだずっと「日常の隣にある死」を見せつけられると、理屈より深いところで、「ああ、人は死ぬんだなあ」なんてアタリマエのことが、なんか強く俺の中に入ってくる。

なにも残らない、なにも残さない映画って言ったけど、ひとつだけ残るとしたら、それは、「俺たちは、皆、死ぬ」っていう厳然たる事実だ。

そんなこと言われてなくてもわかってるし、そんなことを映画で描いてどうすんのよって思うかもしれないけど、

北野監督は、バイク事故起こしてから、「俺のは一度死んで拾った命だから惜しくねえんだ。いつ死んだっていい」って言ってて、その想いを乗せるためだけに映画撮ってんじゃねえかって思うこともある。

よくママちゃんと「あの人は一回死んでるから」みたいな話するんだ。ママちゃんも一回死んでるんだけどね。

「一回死ぬ」ってのは、鬱になったり、絶望したり、事故に遭ったりして、人生が強制終了させられて、心が死を通過したってこと。戦争体験した人とかもそうかな。

そういう人は、一度命を捨ててるから、いろんなことがある意味どうでもよくなって、自由気ままに好きなように生きられるようになったりする。

リアルに心の死を通過した者は「いつ死ぬかわかんねえんだから、好きなことやるしかねえだろう」っていうのを、ガチで腹の底から思えてるから、小さなことには動じないんだよな。

俺なんかは、中途半端な半殺しにしかあったことないから、今でも、生にしがみついて、小さなことにぐちぐち言って、みっともなく足掻いてる。

極道っていうのは、そういう意味で、死というものが俺たちよりも近くにあるから、描きやすいんだろうね。

やりたいように生きて、最後は迷惑かからないように、自分で引き金を引くっていう死に場所の美学。

俺はそんな覚悟とても持てないから、これからもみっともなく生にしがみつくんだろうけど、まあ、明日死ぬかもしれないから、今日できることやるっぺよ、くらいの気持ちで生きているよ。

人は、死ぬときゃ死ぬ。

その日まで、やりたいように生きるしかない。

なにも残さないようで、なんだか大きな包容力のある、そんな映画かもしれないな。