その店は、どことなく不思議な店だった。
チェーン店のようでチェーン店ではなく、中華料理店らしくないけどれっきとした中華料理店で、ファミレスのような清潔でポップな外観なのに、働いているスタッフは家族のような雰囲気で、いつ訪れても同じメンバーが元気よく迎えてくれた。
何かが特別うまいわけでもなかった。ラーメンも餃子も炒飯も、おいしいけれど、まあどこにでもあるようなクオリティというか。
料理や接客が特別良いわけでもない、特筆すべきことがなくて、ただただどことなく不思議な店、というのが僕がこの店にはじめに抱いたまごうことなきイメージであった。
茅ヶ崎駅北口から伸びるエメロードという商店街を進み、角をひとつ曲がってすこし歩いたところに、その店はあった。
茅ヶ崎に住みはじめて十年ほども経つと、僕が抱いていた〈どことなく不思議な店〉というイメージはいつの間にか消えていた。何度も足をはこぶようになって、やがては意識することもなくなるくらいに僕らの生活の一部となっていった。
当初は特別うまいわけでもないと感じていた料理も、クセになるというのだろうか、だんだん馴染んできて、いつも忘れた頃に無性に食べたくなった。
たっぷりの挽肉や野菜を卵でとじたトロットロのあんかけがのったラーメンが好きだった。ほどよい酸味と胡椒の風味と卵のまろやかさが絶妙で熱々のあんがいつまでも冷めなくて、凍える冬には体が芯まで温まった。
チャーシュー麺のスープはシンプルで力強さがあり、歯ごたえがありながらホロホロと崩れる肩ロースの分厚いチャーシューには一発でファンになった。
卵と米がパラパラにほどける炒飯にもそのチャーシューが使われていて、一緒に出てくるとろみをきかせたスープは子どもたちの大好物で何度もおかわりをした。
うだるような夏も、凍えるような冬も、僕らは忘れ物を取りにいくかのようにときおり、その店を訪れた。
経営者と思われる年配のご主人は、やさしい笑顔と快活な接客の影にすこしの頑迷さと厳しさを感じさせる人で、茹であがった麺をかならず一本口に入れて硬さを確認している姿が印象的だった。
僕もイタリアンレストランで毎日何十皿というパスタをこしらえていたことがあるけれど、ご主人のように自分の舌でアルデンテを確かめたりするなんて面倒なことはしなかった。基本的にはタイマーまかせであり、だからご主人の細やかなプロ意識には感服したものだ。
カウンター席には踊る猫の人形が置いてあって、まだ幼い子どもたちがそれを喜ぶのを知って、いつもご主人がスイッチを入れてくれた。踊る猫から流れるメロディのボリュームがなかなか大きくて、他のお客さんの迷惑にならないかと僕はいつも心配していたのだが、そんなことはおかまいなしに人形の真似をして腰をくねくねと揺らすご主人の動きがユーモラスで、とても微笑ましかったのを覚えている。
ある夏の日、その店は唐突に閉店してしまった。
某月某日に閉店しますというような予告があったわけでもなく、本当に唐突に「本日をもって閉店しました」という張り紙が出ていたそうである。
僕はしばらく呆然として、理解し呑みくだすのにしばらくの時間を必要とした。
きっと茅ヶ崎に住んでいる人の中には、僕以外にも、いや僕以上に驚いてショックを受けている人がたくさんいるに違いない。
その店はそれくらい街に馴染んでいたし、これまでもずっとそこにあって、これからもありつづけるはずの風景の一部であったし、茅ヶ崎という街を構成する必要不可欠なエレメントのひとつであったとさえ言えた。あの一角にあの店がない、というのが想像できないくらいに。
歳を重ねて、子どもたちが巣立って、また家内と二人きりになっても、ひっそりと通い続けるのだろうなと思っていた。永遠だと思っていたものを唐突に失うと、人は呆然とするしかないのかもしれない。
叶うならば、どこか別の場所でお店を再開してくれないかと切に願っている。それが無理なら、せめてあのご主人やスタッフの方たちに、一度でいいからありがとうって言いたい。いつも本当に美味しかった。いつも本当にありがとうと。
なんだか不思議な話だけれど、今まで生きてきて、こんなにもありがとうを伝えたいと思ったことはないくらいに、強くそう思う。たかが街の中華屋さんだと言われればそれまでだし、他に感謝すべき人はいくらでもいるのだろうけれど。
僕が寂しく思うのは、あそこの味って、他のどのお店の料理にも似てないんだよね。あんかけのラーメンも、チャーシュー麺も、辛い火事場ラーメンも、あそこでしか食べられない味だったから。
そう考えると、やっぱり、引き際さえも、どことなく不思議な店だった。
誰か跡を継いで開店した、なんて話を聞いたら、すぐに僕に教えてくださいね。
ああ、また食べたいなあ……。