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ハンマーで脳髄をぶん殴られるような衝撃だった『セッション』、夢と愛を生きる切なさの極地を見せてくれた『ラ・ラ・ランド』と、エンターテインメントとマジックに充ち満ちていた前二作に対して、デイミアン・チャゼルが『ファースト・マン』で見せてくれたのは、史実からは見えない圧倒的な〈リアル〉。

まずもってあの時代に、人類が月を目指すということが、どれだけ身のほど知らずの無謀な挑戦だったか。

挑戦、という言葉の選択は正しくないかもしれない。無謀とは、無茶とは、深い思索のないこと、筋道のたたないこと__すなわち馬鹿、のことである。我々人類はバカ。過去現在未来バカ。って甲本ヒロトも唄ってたっけ。皆殺しのメロディ。

それは冒頭、アームストロングが空軍のテストパイロットとして軍用機に乗って成層圏に達するシーンからすでに恐ろしいほどに伝わってくる。なにしろ六十年代の技術であるから、機体は不安を煽りつづけるように揺れ軋み、高度計などのずさんなメーター類、操作不能に陥る操縦桿、重なる信じられないような故障、さらにそれらの困難を乗り越えて成層圏に達して帰還したというのにパイロットの資質を疑うという組織としての稚拙さと__今の感覚で見たら、とてもじゃないが成層圏どころか雲の上を目指すようなレベルにはない。

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求心力を失いつつあったケネディ大統領の政治的な方針によって進められた月計画に、アームストロングという寡黙な男が翻弄されているようで、その実幼い娘の死を密かに胸に秘めながら、その台風の中心になっていく。

アポロ11号はアメリカの、人類の代表として月に到達したはずだったが、一貫してアームストロングの主観で描かれる本作を見ると、人類が、というよりも、ある一人の男が月へ行ったにすぎないのだという気がしてくる。どれだけの金と労力がかかっていたとしても、実際に成層圏を突破して、放射能にまみれた暗黒の宇宙を漂い、月に到達したのは、三人の男でしかないのだ、という、新たな視点をチャゼルは見せてくれる。それは、月面にアメリカ国旗を立てるシーンがないことからも明白だ。

アームストロングは月面に踏みだしたとき、「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」という名言を残したが、それは逆説的に、人類にとっては偉大な出来事かもしれないが、自分自身にとってはまた別の、至極個人的な意味があるのだ、ということを示唆しているような気がしてならない。

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トラブルが発生しても、すべてはアンダーコントロール__想定の範囲内だとNASAの職員は言うが、アームストロング夫人が言うように、人類は玩具で遊ぶ子どもと同じで、なにひとつコントロールなんてできていない。それは今も同じだ。

政治のために月に人を送りたい。大切な家族を失いたくない。宇宙開発でソ連に負けたくない。娘のためにも月に行きたい。月に行かせる金があるなら貧困者を救え。金も命も泡のように消えていく。あまりに無茶だけど今さらやめるわけにはいかない。それぞれの思いや現実が、淡々と進んでいく。

世間的には派手に見えても、あるのは一人一人の人生の集まりと現実。

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アポロ計画の後、人類は一度も月へ行っていない。

なぜなら途方もないお金がかかるから。そんな金をかけるほどの〈意味〉はないから。月なんかに行ったってしょうがないから。じゃあ、アポロ計画ってなんだったんだ。

スタイルや描き方は変わっても、チャゼルはいつも、意味なんかないってことを教えてくれる。この世界に意味も理由もない。そこに人それぞれの情熱があるだけで。我々人類はバカ。過去現在未来バカ。わかってる。そんなことはわかってるんだって。意味や理由は、いつだって個人的なものなんだって。