銀座でシリアルキラー展というのをやってると訊いて、新橋でラーメン啜りがてら見てきました。
正直もっと、連続殺人鬼たちのほとばしるような感情や狂気の煌めきを見られると思ってたんだけども。
そこにあったのは、ある種のパフォーマンスにすぎなかった。少なくともボクにはそう見えた。
昼間はピエロの格好をして福祉施設をまわりながら、裏では30人以上もの少年を殺害したという、殺人ピエロことジョン・ウェイン・ゲイシーなんかは、処刑されるまでに4000枚もの作品を描き、獄中から販売していたという。
そんな彼に限らず、どの作品も、殺人者としての自分を意識しながら描いているように見えた。
「どうだい?異常な俺が書く絵はスゴいだろう、なあ?」
とニヤニヤ迫ってくるような、作為。見せかけ。パフォーマンス。
もちろんそれ自体が異常といえば異常なんだけど、並んだ絵はどれも、なんだか陳腐に見えた。純粋な悪なんて、ないのかもしれないなあって。
むしろ殺人者たちや彼らが描く絵よりも、彼らに憧れ、獄中の殺人鬼と婚約し、グルービーとして有名になった女のような、シリアルキラーに群がってくる人間たちのほうが、よっぽど生々しくって、ひんやりとしたなんともいえない不気味さを感じる。
実際、シリアルキラー展はそうとう人気があるみたいで、週末なんて大混雑でなかなか入れないらしい。平日でもすごい人だったよ。
たぶんみんな、絵を眺めつつ、狭い画廊でぎゅうぎゅうになりながら、「いったいどんな人がわざわざこんなものを見に来てるんだ?」と、自分を棚に上げて周囲を見渡していたに違いない。もちろんボクだってそうだ。
大学生の頃、初めて世界の猟奇殺人者を特集した本を買って、プロファイリングや犯罪心理学などの本を読みはじめた。
中二病の一種とも言えるんだろうけど、思春期を経て、自分の中に得体の知れない〈闇〉があることに気づいて、もしかしたら自分はふつうじゃないんじゃないか?という疑問を抱き、その〈闇〉を爆発させてしまった究極形ともいえる世界の異常な殺人鬼たちを見ることで、自分の立ち位置をはっきりさせたかったのかもしれないね。
彼らと自分のあいだのグラデーションを確認して、ボクはまだまともであると、安心したかったのかもしれない。
“ Anything you see in me is in you. “
パンフレットに載っていたチャールズ・マンソンの言葉である。
「あなたが私の中に見るものは、あなたの中にあるものだ」
なかなかゾクッとする言葉だよね。
殺人鬼たちの描く絵がパフォーマンスに見えたのは、ボク自身が、パフォーマンスを演じてきた(と思っている)自分をどこかで恥じていたのかもしれない……。というか、そうなんだろう、きっと。
ボクらが見るものは、自分自身を写す鏡でしかない。
自分でもどうしてシリアルキラー展なんかに出向いたのかわからないけど、ときおり、人間の闇を覗きこみたくなることはある。
そして、少なからず、自分の中にもちゃんと闇があるのだと、あらためて再確認する。
人を殺めることはなくても、所詮誰しもが同じグラデーションの上にいるのだと頷く。
哀しくつらいことがあってから、楽しいことやポジティブなものばかり探して、ネガティブを否定していた時期があったのだけれど、そこには苦しみしかなかった。
それよりも、つらいことも後ろ暗いことも切ないことも哀しいこともいろいろあるんだって、自分の中の小さな闇を抱えながら生きようと決めたとき、
世界はぱあっと、明るくなった。
ぬたあんと力がぬけて、勝手に笑顔になってた。
なーんだ。闇があってこその光やんけ……。
太極図の中の小さな点は、陽が内包する陰を表してる。
健常やポジティブばかりに振りまわされなくていい。
悪趣味でもいい。ネガティブでもいい。
夜もある。朝はくる。