土曜日にね、映画館で、パパとママは『楽園』、子どもたちは『マレフィセント2』を、分かれて観たんだけどね。
くしくもどちらの作品も、〈悪意の裏側〉を描くっていうか、純粋な悪の人なんていないよな、っていう作品でさ。
『楽園』は、もう始まってすぐに、同じく吉田修一原作の『悪人』とか『怒り』を思い出したよ。あの、どことなく漂う地方の閉塞感と、不気味な日常みたいな温度で。同じく綾野剛の『そこのみにて光輝く』も。
そういうのと同じ、現代の日本社会の負の側面、哀しい闇の部分、ダークサイドを描いてる、いわゆる社会派って括りになる映画なんだけど。
僕ね、常日頃からスンゴく思ってるんだけど、こういうね、悪意とか、哀しみ憎しみ、苦しみの〈裏側を見る目〉をね、僕らみんな、忘れないでいたいよねって。
今さ、情報化社会で、いろんなことが可視化されて、共有されるでしょ。
インターネットを通じて、有益な、ポジティブな情報をたくさん知ることができるようになった反面、あおり運転だとか、睡眠薬レイプだとか、電車バスで妊婦が文句言われたとか、他人の、大小の、いろんな悪意に触れる機会も増えたわけです。
で、その他人事の表層だけを捉えて、信じられない!とんでもねえ奴だ!と、糾弾したり、炎上したりしてるんだけど、そうじゃなくて、そういう悪意の人って、どうしてそんなことしちゃったんだろう?っていう視点をね。まあ、作家とか表現者というのは、古今東西そこを描いているわけだけども。
後半のほうで、「不審者を見つけたら通報します」って看板を捨てるシーンがあるんだけど、アレね、象徴的で、つまり、もともとあの町に不審者なんていなかったんだよ。
みんなまともな人で、健気に、それぞれの置かれた場所でしあわせになろうとがんばってたの。
でも、限界集落の貧困とか、田舎の老人の古いムラ意識とか、恐れが誤解を生んで、罪悪感が拍車をかけて、いろんなもんが重なって、生け贄みたいに、悪意の犯人が生まれてくっての。
どこにでもあるフォーマットだと思うんだよね。
犯罪者を許せ、って話しじゃもちろんないんだけど、そういう、〈悪意の裏〉をね、リアルに体感させてもらいました。
この前観た『ジョーカー』とかもそうだけどね。火サスとか、松本清張とか、犯罪ものの意義ってそこでね。
『ジョーカー』観てるときも、今回『楽園』観てるときも思ったんだけど、なぜ僕は、そして人は、こんな哀しくて陰惨な物語をわざわざ観るんだろうって。
それはさ、結局、世界を全部見て、納得したいのかなって。
「闇を知らぬ者に、光もまたない」って沢庵和尚も言ってたけども、同じ人間なのに、こんな闇が生まれるのはなぜなんだろう?ってことが腑に落ちると、光がまたより一層輝くのよ。
陰と陽、両方を見ないと、やっぱり偏るんだよね。
ポジティブばっかりになると、結局ネガティブになる、みたいな。うまく言えないけど。
悪意の裏側には、愛情が貼りついてるんだなあって、気づくわけ。
愛されたかった、愛したかった、かなわなかった。どうしようもなかった。破綻した。壊れるしかなかったっていうね。
僕も昔経験あるけど、自分でいろいろがんばってね、一生懸命考えて、ベストを尽くしたのに、認められなかったり、攻撃されたり、傷つけられたり、何をしてもダメって、どうしようもなくなったら、誰も信じられなくなるんだよね。
どうしようもない。にっちもさっちもいかない。
それは、おっかないよ、やっぱり。
今もさ、どんどん〈人間不信〉が進行している気はするよね。他人事と当事者意識が、情報で混濁してっからね。
だからさ、信じるっていうか、——見る、って大事だと思うんだ。
ああ、悪意に充ちてるあの人、イライラしてるあの人、スゲえイヤなあいつ、本当は哀しいんだな、本当はつらいんだな、って。
自分もね、ああ、私哀しいんだな、つらいんだなって、やさしくしてやらんと、他人にもやさしくなれないしさ。ね。大丈夫。うまくいくぜ。