週に二日、アンと一緒にドッグランへ通っている。
木曜日は、犬の幼稚園。
親元(飼い主)から離れて、様々な犬種、様々な年齢の複数頭の犬とドッグランを走りまわることで、アンは社会性を身につけていく。
犬は社会的な動物であり、自分と違う人間という生き物とだけ暮らしているより、同じ性質と本能を持つ犬たちと関わることで、様々なことを学び、歓び、脳が活性化する。
思いきり走りまわり、他の犬たちと激しく身体をぶつけあい、ときには聞いたことのないような獰猛な唸り声をあげ、歯を剥きだしにしている姿を見ると、当初は心配になったりもした。
けれど、そのようにしてアンは、経験豊富な歳上の犬たちに、噛み方や接し方を直接教えてもらい、健全に成長しているのだと知り、今は安心して完全にスタッフさんたちにまかせている。
月曜日は、ボクとアンのレッスン。アメリカ帰りのドッグ・トレーナーさんに、__犬のしつけ、トレーニングをしてもらう。
シーザー・ミランの本を読んだり、Netflixでドッグ・トレーニングの番組を観て予想していたとおり、
__犬のトレーニングとは、飼い主であるボクのトレーニングである。
犬のトレーニングとは、犬を知るコトであり、人間社会で共存するためのルートを導いてやることである。
パック・リーダー(群れのボス)である飼い主も、同じパック(群れ)で暮らす犬も、お互いがなるべくストレスなく、溢れるエネルギーを自由に発揮して、心地よく暮らしていくために、
__ボクはアンのことを知り、アンはボクのことを知っていく。
トレーニングをしていると、いつもそんなことを思う。
先日は、__散歩中に、アンが路傍や電柱や草花の匂いを嗅いだり噛んだりばかりして、なかなか歩いてくれない、という相談をした。
以前、散歩のレクチャーを受けた際、__飼い主は犬の方を見ず、進行方向を向いてひたすら自分のペースで歩けばよい、ということを教わり、そのようにすると、犬も自然と横を歩くようになる、ということを知ったのだが、
最近また、アンが言うことを聞かなくなってきたのだった。
そこで、ドッグランの周囲を実際に散歩して、後ろから先生に見てもらうと、すぐに問題のポイントがわかった。
__ボクが、リードを短く持ちすぎていたのである。
仔犬とはいえ大型犬だし、まだやんちゃで人に飛びついたり、車が通れば危ないし、リードは短く持ってコントロールしてあげる、という話を聞いたこともあったので、
最近、朝晩の散歩をするようになってから、たしかにボクはリードを短く、ほとんど張りつめた状態で保持して散歩をしていた。それでいいと思っていたのだ。
だが、先生の言うとおり、それでは、
__常に自分の首が引っぱられている状態であり、自由がまったくない状態。
なんで、ある。
犬が行きたい方向に自由に歩かせるのは、パックの序列を壊し、犬を混乱させることに繋がるが、
__常にリードで自由を封じられていたら、そりゃアンだって反発したくなる。
いや、反発ではないな。
__ただ、もっと、自由に、生きたい、動きたい。
そう願うのは、ボクら人間だって同じだ。
ボクは大いに納得し、先生の言うとおり、車や人がいない場所では、以前のようにリードをゆったり長く保持するようにしながら、ボクのペースで歩いてみた。
ある程度の自由を取り戻したアンは、路傍の草花に気をとられることはあっても、すぐに顔を上げ、ボクの隣を悠々と歩いていく。
表情も明るく、なんとなく自信すら感じられる。
__なるほど。やはり、犬ではなく、ボクのほうだった。
リードを持つボクの手に、アンの動きはほとんど感じられない。繋がりながらも、ゆったりと、解き放たれ、ボクらの動きが同調しているのだろう。
ボクは小さくため息をつく。
人間だって、見方によっては、リードに繋がれているようなものだ。
家族、親子、職場、友人知人たちだって、ボクらが誰かと関わる関係性のすべてにおいて、ボクらはお互いに見えないリードで繋がっているのかもしれない。
そのリードのおかげで、ボクらは離ればなれになることなく、諍いがあったり、ちょっとイヤなことがあっても、また元通りに戻ることができる。
そう思うと、
__僕はいつのまにか、リードを極端に短く持って、大切な人、愛する人の自由を奪ってしまっていたのかもしれない。
自由を封じられたアンがそうしたように、エネルギーと自分らしさを発揮する場所を失ったら、誰だって、そのリードを切り離したくなるはずだ。
人と人の関係が破綻するとき、それは、お互いの自由とエネルギーの行き場を失ったときなのかもしれない。
ボクは苦笑し、空を見あげる。
人の間、と書いて、人間。そんなことを思い出す。
ボクはリードをゆるめ、けれど決して離さないように、それをぎゅっと握りしめる。