犬を飼うようになってから、まわりを見渡してみると、__大型犬を飼う人というのは、余裕と余白がある人たちなのだと気づいた。
そりゃそうだ。たとえば成犬体重が30kgオーバーにもなるラブラドール・レトリバーと暮らすためには、それなりに広い住環境が必要で、食費だってかかるし、朝晩の散歩に連れていくだけの時間の余裕があって、仔犬から迎えるのなら、家族の協力も必要になる。
強引に一般化するつもりはないけど、少なくない飼い主さんたちとお話しさせてもらっているうちに、日本で大型犬を飼っている人っていうのは、余裕があって心豊かな暮らしをしている人が多いのだな、とあらためて実感した。
だけどこの夏の終わりに、ラブラドールの仔犬を迎えたとき、ボクには余裕も余白もちっともなかった。
あったのは、茫漠とした空白だ。
ストレス性の不安傷害で、冬の槍ヶ岳を単独登山しているような緊張感で毎日を暮らしていたボクは、鬱の闇からようやく光を見いだしはじめてはいたが、まだ日々の暮らしに余裕や歓びを感じるほどにはいたっていなかった。
かつて家族五人で暮らしていた家は一人には広すぎて、どこもかしこも空白だらけだった。
近しい人を亡くしたときにも感じたが、__誰かがいなくなると、その人の存在の大きさのぶんの空白が生まれる。
愛する家族が嵐によって連れ去られたかのように一瞬でいなくなった日常には、茫漠とした、寒々とした風が吹きやまぬ、真夜中の砂漠のような空白が生まれた。
ボクはその空白を埋めるために、様々な本を読み、映画を観、思考を書きだし、海辺を歩いて、友人知人と連絡を取り、複数の病院へ通い、新しい暮らしを暮らし、様々なことを試したが、それらすべてが終わったとき、やはり埋まらない空白を感じた。
どこかでわかってはいた。空白に何をどれだけ詰めこんでも、その空白は埋まらないことを。その空白は、自分や暮らしや時間の外にあって、自分で埋めることはできないものなのだと。
忘れるくらいに何かに没頭することができても、__疲れ、無為になり、ソファに横になって、目を閉じ、ふたたび目を開けたとき、空白はいつの間にか、もう長いあいだずっとそこにいたかのように、素知らぬ顔をして傍らにたたずんでいる。
ボクは諦めて、空白を受けいれる。呑みこんだ寂しさが、ため息となってこぼれだす。
けれど、アンがわが家にやってきてから、二ヶ月と少しが経って、今、悲愴感はほとんどない。
夕暮れ時や雨の日には、寂しさや哀しみがたまにやってくるけど、晴れた午前中には、家中のいろんなところに希望が散らばっている。
自分では何をしても埋まらなかった空白が、アンによっていつの間にか埋まり、今ようやく、ボクの中に余白が生まれようとしている。
どこへ連れていっても、__こんなに元気なワンちゃんは見たことない、と苦笑されるほど暴れん坊でやんちゃなアンとの暮らしはへとへとになるほど疲れるし、まだ余裕はないけど、少しずつ、お互いのエナジーの循環が整ってきて、力が抜けてきた。
__そしてボクは、空白と余白は違うのだと知る。
空白は、いない人や持っていないものを渇望する心から生まれるが、余白は、一人でいる安らぎと、もうすべてある、という気づきがもたらしてくれる。
余白は、孤独がもたらしてくれる大きな豊かさのひとつなのかもしれない。
ボクは自分の意志で一人になったわけではないけど、独りになってよかったと、今、心から感じている。
__独りには、余白がある。自由があり、選択があり、希望がある。それは、ボクはボクの人生を生きている、という確信でもある。
まだまだ、暴れん坊のアンは、それほど多くの余白をボクに与えてはくれないけど(笑)、アンはアンの今日を暮らし、ボクはボクの今日を暮らし、愛する人たちも、どこか遠くでそれぞれの暮らしを暮らしている。そんな実感がある。
家族がいても、誰かといても、忙しくても、独りの余白を持つことはできる。孤独を恐れず、孤独を受けいれたとき(カンタンじゃなかったけどさ)、空白は、豊かな余白に変わる。
愛するあなたにも、これを読んでくれているあなたにも、いつも希望と安らぎの余白が寄りそっていますように。