毎日、ピアノばかり弾いている。
長年の夢だった、__リビングにピアノ、を実現したのだ。
家族がいた頃は、ボクらの寝室に娘の電子ピアノを置いていたのだけれど、あまり弾くことはなかった。
寝室というのはボクにとって、お酒を飲みながら本を読んだり、映画を眺めたり、音楽を聴いたり、リラックスする部屋であって、能動的な音楽性が発揮される場所ではなかったんだろう。
リビングにピアノがあると、ふとした瞬間に、鍵盤に触れることができる。
書斎からリビングに降りて、一息つこうか、というときに、そこにピアノがあるのは、とてつもなく幸福だ。
外から帰って、リビングに入ったとき、そこにピアノがある風景は、最高にクールだ。
夕食を終え、静かな一人の時間に、楽譜とにらめっこしながら、たどたどしい指づかいで鍵盤を叩いていると、気持ちが安らいでいく。
まだ、まともに弾ける曲なんて数えるほどだけど、
__ほんの少しでも、一小節でも、昨日よりうまくなった、弾けるメロディが増え、音が繋がっていく、
という実感は、ボクの心を底のほうからじんわりあたためてくれる。
それにしても、YouTubeというテクノロジーのおかげで、好きな曲にどんどんチャレンジできるのはデジタルな現代の恩恵だ。
ボクみたいなビギナーでも、ソナチネなんか無視して、ジェイミー・カラムやノラ・ジョーンズに少しずつ近づいていける。ベン・フォールズはちょっとムリそうだけどさ(笑)。
今までは、楽譜のオタマジャクシの横にドレミを書き込んで、一音ずつ憶えて弾いていくイメージだったのだが、コードの転回系を憶えはじめてから、これまでよりずっと自由な、身近な楽器になってきた。
転回系とは、たとえば、ドミソというCコードの構成音を、ミソドやソドミのように転回して、オクターブを広く往き来することで、音に広がりと自由を与えてくれるモノだ。
それを知ってから、ピアノという楽器が今までとまったく違うモノに見えてきた。
同じ物事でも、見る角度を少し変えるだけで、こんなにも可能性は広がっていく。
趣味で長いこと弾いているギターも、コードを憶えて右手はテキトーにアルペジオやらストロークやらを即興的に弾いてばかりだ。ウクレレももちろんそうで、
__すべての楽器は歌の伴奏でしかない。
と、ジョン・レノンが言ったとか言わなかったとか、ボクもそんな感じで、楽器を鳴らしてボソボソと一人で唄っている。
皮肉にも、家族がいなくなってから、小さな夢がどんどん叶っていく。
ボクは海辺の街で、黒くて美しい大型犬と暮らし、ピアノを弾いて、本を読んで、たまに文章を書いて、静かに暮らしている。
まだ家族がいた空白は暮らしの中にあるけれど、寂しさは少しずつ、余白に変わり、そこにあたたかいものが流れこんできているようだ。
あのまま彼女たちと暮らしていたら、ボクはコードの転回系を憶えることもなかっただろうし、寒い冬に毎朝ビーチで犬と走ることもなかっただろうし、今のように静かに世界を見つめ、クリアな視界を手に入れることもできなかっただろう。
そして何より、自分にとって大切なことや人が、どれだけ大切なものなのか、ただ生きている今日のどれだけ素晴らしいことか、を知ることができた。
それは痛みや苦しみの先でしか見つけられなった光であり、間違いなく人生のコラテラルなギフトだ。
生きていくってことは、山あり谷あり、しんどいことも多いけれど、
長い目で見てみれば、ピアノのコードのようにいろんな出来事やフェーズを転回していくことで、人生という楽曲の音色に、豊かな広がりや深みが増していくのかもしれない。